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help RSS 太平洋戦争と日本商船動向(38)

<<   作成日時 : 2007/01/24 20:21   >>

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新夕張丸(共立汽船→三井船舶)
 下図の本船は昭和11年(1936)に建造された貨物船で、その要目は長さ119m、幅16m、主機3連成レシプロ機関&蒸気タービン2936馬力、最高速力15.5ノット、総トン数5355トンです。
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 新夕張丸は共立汽船の貨物船として竣工しましたが、同社が昭和13年(1938)北海道炭鉱汽船に合併されると、本船もその傘下で石炭輸送に使用されました。
 昭和16年(1941)7月海軍に徴用されて石炭輸送船となり、その任務は前進基地への燃料補給や船舶用の燃料を運ぶもので、主としてサイパン島やトラック島への輸送任務に携わりました。昭和18年(1943)夏、船舶運航体制緊急整備要領が決定されると、同年11月に北海道炭鉱汽船船舶部が三井船舶に吸収合併されたため、本船も三井船舶所属になりました。
画像 その後の昭和19年(1944)2月22日、サイパン島を発し日本に向っていた23日、サイパン島40マイル西方、北緯15−17、東経145−03の地点において、米潜水艦サンフィッシュの雷撃と空母ヨークタウンからの攻撃を受けて沈没しました。このとき脱出できた乗組員は救命艇や筏で逃れるが、左舷側のボートと筏に乗っていた者は、間もなく近くの漁船に助けられサイパン島に上陸しました。一方、右舷ボート脱出者は海軍運輸部に依頼して飛行艇で探索してもらうが、3日間の捜索でも発見できず、全員死亡と認定されてしまいました。しかし、右舷側ボートの乗組員等は熱帯の日差しの下で、当てもない漂流を続けていました。
 このときの模様を黒川明甲板員は次のように語っています。――― 遭難時に海水を嫌と言うほど呑んだので、喉が激しく渇くが殆どスコールが来ない。口の乾燥が激しくなり唇を合わせると、くっついて取れなくなる。だから口を開けたままでいた。漂流5日目ときおり死体が流れるのが見えるだけだった。脱水状態は極限に達し、9日目、10目からは誰も物を言わず目だけが光っていた。11日目の明け方、水平線から現れた輸送船に助けられる夢を見る。昔、休暇で実家に帰ったとき、母は明け方に息子が帰る夢を見る、と言っていたのを思い出す。それから2時間後、水平線に黒煙が見える。全員が生き返ったように元気になった。たった3本のオールで漕ぎ始める。そのうち1本の棒状のものが見えた。「敵潜水艦か」と怯むが、近寄るにつれて司令塔の日の丸のマークが見えた。「友軍だ」と全員が最後の力を絞って両手を振った ――― 。こうして遭難11日目に救助されました。

新夕張丸戦没者:山田次郎作3等運転士ほか甲板部、機関部及び事務部乗組員計4名

明石山丸(三井物産)
 下図の本船は昭和10年(1935)に建造された貨物船で、その要目は長さ110m、幅16m、主機ディーゼル3038馬力、最高速力15.8ノット、総トン数4541トンです。
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 明石山丸は昭和7年(1932)施行の第1次船質改善助成施設を適用して建造された貨物船で、三井物産としては本法適用の第6船、他に姉妹船として朝日山丸が有りました。
 昭和10年6月本船は神戸を出航、バンコク向け初航海の途につき、同航路の定期船となりましたが、同年7月舷側外板を従来の黒から鶯色に塗装、その後この塗装が三井物産の船に広く適用され、三井グリーン・ボートの発端となりました。また、昭和12年(1937)の日中戦争勃発で軍用船となるが、間もなく解除されて原航路に復帰、朝日山丸と共に就航を継続しました。
 その後明石山丸は昭和16年(1941)9月海軍に徴用され、11月には北方部隊所属の雑用船となり、北海道から千島に至る北方水域を往復する任務についています。昭和18年(1943)の行動は不詳ですが、昭和19年(1944)が明けると間もなく、本船が終焉に向う過酷な運命が待ち構えていました。同年2月28日、駆逐艦・薄雲の護衛の下で、3隻の船団を組んで小樽を出航、他の2隻、良洋丸(6973総トン、東洋汽船)には歩兵第158連隊主力、富国丸(2851総トン、松岡汽船)には同第3大隊が乗船して松輪まで行き、明石山丸の任務は幌筵島まで脚を延ばす計画でした。
 船団は釧路沖から択捉瀬戸を抜けオホーツク海を北東に進むコースを取りましたが、3月1日には低速の富国丸が遅れて各船の間隔が広がり、護衛艦は長くのびた船団の前後を行き来しながら航行していました。翌2日には明石山丸が先頭になり、良洋丸が後方500メートル、富国丸は最後尾となり、低気圧による荒波の中を航行中の同日深夜の23:15、ウルップ島付近の北緯46−00、東経149−08の地点に差し掛かったとき、本船は米潜水艦サンドランスの雷撃を受けて一瞬の内に沈没しました。深夜の雷撃で荒れ狂う厳寒の海に投げ出された乗務員を救う手立てはなく、猪塚智船長以下44名の全乗組員が海没してしまいました。
 同船長(当時35歳)は最後の航海に出る前に1週間、家族と過ごしており、このとき長男が母から聞かされた父の話は、「おおっぴらには言えないがこの戦争は負ける。今度は恐らく生きて帰れないだろう。なかには診断書を書いてもらって乗船しない者もいるが、自分はそんな事は出来ない。上司や同僚が次々に戦没してゆき、自分はこの歳で船長になったが、このような時代だから、船が沈めば船長は運命を共にする」と語っており、口数の少ない子煩悩だった船長は、以上の言葉を残して出航していきました。

明石山丸戦没者:猪塚智船長ほか甲板部、機関部、通信部及び事務部乗組員計44名

華陽丸(北海道炭鉱汽船→三井船舶)
 本船は大正12年(1923)に建造された貨物船で、その要目は長さ105m、幅15m、主機3連成レシプロ機関2916馬力、最高速力13.1ノット、総トン数4368トンです。
 華陽丸は大阪鉄工所が第1次世界大戦中の船腹需要を見越し、思惑で建造したストック・ボート19隻中の1隻でした。同造船所船舶部が保有して大洋汽船に用船され、三井物産の運航で大連〜横浜(特産物)、樺太〜清水(木材)、三池〜シンガポール(石炭)、豪州〜日本(小麦)など多彩な輸送に従事しました。大正15年(1926)北海道炭鉱汽船が本船を買取り、後に共立汽船の所有を経て、昭和13年(1938)には再び北海道炭鉱汽船所有となり、その後昭和18年(1943)11月に同社船舶部が三井船舶に合併されたので、本船も三井船舶に移籍しました。
 昭和16年(1941)10月、本船は陸軍に徴用され11月27日門司を出航して奄美大島に集結、フィリピン・ラモン湾に上陸する第14軍団を乗せて、12月17日20隻の大船団で出撃、24日敵前揚陸に成功しました。次いで昭和17〜18年は内地からシンガポール、ラングーン、ジャカルタまで兵員や資材輸送に従事したが、南東太平洋方面の戦局が深刻になるにつれ、本船の行動範囲は拡大しました。昭和18年(1943)7月4日佐伯から第404船団4隻を組み、第17、第18掃海艇に護衛され、中国駐屯の第51師団をラバウルに輸送したのがその皮切りでした。その後は内地からラバウル、更にはニューギニア北岸のウェワク、ホーランディアへ部隊を輸送、これらの部隊は最終的には断念せざるを得なかった、スタンレー山脈越えのポート・モレスビー攻略を意図するものでした。
画像 華陽丸は米潜水艦の脅威に絶えず曝されながら任務を遂行していたが、昭和19年(1944)2月にパラオからウェワクに向ったのが、本船の終焉航海となりました。2月28日、第4次ホーランディア、ウェワク輸送船団に加わりパラオから南下、3月3日、サルミ沖クマンバ島東方11キロの地点に達した23:41、米潜水艦ぺトーの発した魚雷が2番艙を直撃、更に3分後に同一個所に被雷して船体が真っ二つに折れ、船尾を上に30度の角度で沈没しました。このとき搭乗していた南方第6支隊員など825名のうち46名と船員28名が海没しました。被雷を知った第34号掃海艇が現場に急行し、爆雷攻撃を行ったが、同潜水艦は危うく脱出したとの米海軍作戦記録が残されています。

華陽丸戦没者:松原一枝1等運転士ほか甲板部、機関部、通信部及び事務部乗組員計28名


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