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help RSS 太平洋戦争と日本商船動向(39)

<<   作成日時 : 2007/01/30 08:52   >>

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大峰山丸(三井船舶)
 下図の本船は昭和18年(1943)に建造された油槽船(戦時標準船)で、その要目は長さ161m、幅20m、主機蒸気タービン18813馬力、最高速力18.8ノット、総トン数10536トンです。
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 昭和18年後半には中部太平洋戦線での頽勢が決定的となり、南方資源の内地輸送に力を入れるため、タンカーの急造が責務とされました。大峰山丸は三菱長崎造船所が手がけた戦時標準型タンカーの1隻で、ボイラは21号水管式、三菱インパルス2段減速タービン1基が搭載された高速船として登場しました。
 本船竣工と同時に海軍に徴用され、海外から石油輸送や艦隊随伴補給船としての役割が期待され、先ずシンガポール〜徳山間を2往復し原油輸送に携わった後、3度目の任務が早くも本船の終焉航海になりました。
 昭和19年(1944)2月10日徳山発、21日門司で本船を含む計4隻の高速タンカーによるヒ47船団を編成して16ノットで出航、海防艦・択捉、佐渡の護衛の下での航海でした。高雄で低速船6隻が加わったため速度を11〜12ノットに減速、この頃南シナ海では米潜水艦が多数パトロールしていたので、船団は暗礁の多い南沙諸島の島々を縫うコースを1列縦隊で航行しました。ブリッジで操船指揮をしていた阿部正3等運転士は新米航海士でもあり、ひやひやしながらの航海であったと回顧していますが、本船の最後は次のように訪れました。
 シンガポールまであと1日という3月4日の明け方、阿部運転士が天測のためブリッジ・ウイングに出た瞬間、本船に魚雷2発が命中、大爆発と共に巨大な水柱が上がりました。魚雷は機関室に命中、機関部員1名がスカイライトから吹き上げられ海中に落下して助かったが、その他の機関長以下機関部乗組員が瞬時に犠牲になりました。阿部運転士が後方を見る暇もなく船は船尾から沈み始めたものの、辺りは水深が浅かったので船首楼を水面に出して止まりました。空船だったためこれ以上の惨事にならず、同運転士らの生存者は数時間泳いで海防艦に救助されました。沈没地点はボルネオ島西方海上のナツナ島北方、北緯05−29、東経104−46、攻撃したのは米潜水艦ブルーフィッシュでした。

大峰山丸戦没者:畑滝之助機関長ほか甲板部、機関部及び事務部乗組員計45名

亜米利加丸(東洋汽船→大阪商船)
 下図の本船は明治31年(1898)にイギリスで建造された客船で、その要目は長さ131m、幅16m、主機3連成レシプロ機関9299馬力、最高速力18.1ノット、総トン数6070トンです。
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 東洋汽船が英米の船社に対抗し、明治32年(1899)香港〜日本〜ハワイ〜サンフランシスコ定期客船サービスを開始、その使用船3隻のうちの1隻が亜米利加丸でした。本船は明治32年1月15日、香港から初航海の途につきましたが、同年7月には北米移住者570名を乗せて横浜を出帆しています。
 また、日露戦争(明治37年2月〜同38年9月)では、高速を利して仮装巡洋艦として、バルチック艦隊探索任務についています。明治38年(1905)10月に原航路に復帰しましたが、明治42年(1909)6月に本船より大型の天洋丸が就航したため、本船は同年4月から南米西岸線に転配されたが同航路に適した構造ではなかったこと、また、折りしも大型船を探していた大阪商船の目にとまり、明治44年(1911)に大阪商船への売却が成立しました。その後、大阪商船は本船を川崎造船所で改装、同年9月に神戸〜基隆線に投入して、同航路の在来船・臺中丸の倍近いサイズやクリッパー(帆船)型船首、2本煙突の瀟洒な客船として好評を博しました。
 その後の大正3年(1914)8月、第1次世界大戦時に日本は連合国側に立って対独宣戦を布告、亜米利加丸は陸軍病院船として日本〜青島間の往復任務に就いています。大正13年(1924)、台湾航路に先に当シリーズ(4)でご紹介した[蓬莱丸]が就航すると、本船は大連航路に転配されました。また、昭和2年〜3年(1927〜1928)には居留民保護の名目で行われた山東出兵の際も、陸軍病院船として日本内地と青島間を往復しましたが、その後、日本一周クルーズを行って話題になったことも有りました。
 また、昭和12年(1937)の日中戦争勃発で再び陸軍病院船となり、大連、上海や呉淞方面からの傷病兵を還送しました。更に太平洋戦争勃発後もその任務は解かれず、昭和17年(1942)は宇品を起点として香港、マニラまで、18年(1943)には戦線拡大に伴い行動範囲も広がり、シンガポール、ベラワン、サンジャクあるいはパラオやラバウルまで脚を延ばしています。
 その後、昭和18年2月に病院船の任を解かれ、翌19年(1944)1月に海軍運送船となり、当時連合軍の攻勢がマリアナ諸島にも及びつつあったので、サイパンやテニアンなどの島々から在留邦人(婦女子と14歳未満、60歳以上の男子)を内地に帰還させる任に当たることになりました。
 この頃は船名表記を「あめりか丸」と変えていたベテラン客船が引揚船となるが、これが本船最後の航海になりました。昭和19年2月14日横浜を解纜、サイパン着、同地で引揚げ邦人514名を乗せて3月4日出航、第14号、第51号駆潜艇と水雷艇・鴻が護衛していました。当時、マリアナ諸島水域〜小笠原群島水域には、米潜水艦が頻々と出没しており、本船は灯火管制、水密扉の閉鎖、淡煙焚火で航行する傍ら、便乗者の避難訓練も実施し、見張りは当直航海士と操舵手のほかに乗組員8名、便乗者3名が行い、非当直船員でも甲板部は全て見張りに立つという徹底した厳戒態勢をとっていました。
画像 春の低気圧で荒れた海を航行する船団は、既に米潜水艦ノーティラスに察知されており、3月6日05:09、雷跡を見せずに魚雷2本が左舷から接近、1本が機関室前部、他の1本が4番艙に命中し大音響と共に爆発しました。航海中は24時間ブリッジに詰めていた船長は全員非常警戒配置と船団部隊に被雷通報を試みたが、機関室破壊で全船機能がストップしており不調に終わりました。
 あめりか丸は数分間で船尾から海没、夜明け前の一瞬の出来事でしたが、便乗者の殆どは婦女子でした。第14号駆潜艇は船団を避難誘導、水雷艇・鴻と第51号駆潜艇は爆雷投下を続けた後、荒波に揉まれる漂流者の救助に当たりました。しかし、救助された者は便乗者、戦砲隊員及び乗組員合計で43名に過ぎませんでした(便乗者514名中511名、戦砲隊員10名中4名、乗組員118名中85名が犠牲)。

亜米利加丸戦没者:奥山和美1等運転士ほか甲板部、機関部、通信部及び事務部乗組員計85名

国陽丸(大阪商船)
 下図の本船は昭和18年(1943)に建造された貨物船で、その要目は長さ118m、幅16m、主機蒸気タービン2200馬力、最高速力14.7ノット、総トン数4607トンです。
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 国陽丸は国際汽船の戦時標準型1B−2型貨物船として起工されたが、昭和18年の合併で大阪商船の傘下に入りました。竣工と同時に海軍に徴用されて運送船となり、翌19年(1944)3月12日、輸送船12隻編成の東松2号船団で東京発、この船団には中部太平洋における敵の反攻を阻止するため、前線に緊急配備される部隊が乗っており、軽巡洋艦・龍田、駆逐艦・野分、朝風、夕凪など9隻に護られていました。
 しかし、船団が大島西南西45キロの地点に達した13日03:14、本船は米潜水艦サンドランスの雷撃を受けて沈没、乗組員43名と乗船部隊員679名が戦没しました。このときは軽巡・龍田もサンドランスの餌食になったが、残る船団は19日サイパン島へ到着しています。なお、国陽丸にはグアム島に配備する防空火器も積まれていました。

国陽丸戦没者:泉直一船長ほか甲板部、機関部、通信部及び事務部乗組員計43名


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