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help リーダーに追加 RSS 太平洋戦争と日本商船動向(62)

<<   作成日時 : 2007/06/07 07:38   >>

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護国丸(大阪商船)
 下図の本船は昭和17年(1942)に建造された貨物船で、その要目は長さ157m、幅20m、主機ディーゼル16110馬力、最高速力20.6ノット、総トン数10438トンです。
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 護国丸はアフリカ航路用に計画された船で、当シリーズ(13)でご紹介した[報国丸]クラスの3番船でした。当初は客船として優秀船建造施設の適用を受けて、昭和14年(1939)7月31日に起工、興国丸と命名予定だったが「報国丸」と発音が紛らわしいことから、建造中に護国丸に改められました。戦時体制下での資材入手難により工事が遅れ、昭和17年4月2日に漸く進水しています。しかし、艤装中の昭和17年7月27日に海軍徴用となり、特設巡洋艦として同年8月4日に完成しました。このときの武装は、船首尾に12センチ高角砲各1門、魚雷発射管2基、コンパス船橋に25ミリ連装機銃2基、航海甲板に25ミリ連装機銃と13ミリ連装機銃各1基、ボート・デッキには7.7ミリ機銃2基が装備されました。船内設備は乗組員居住区のみで、客室相当部分は全て大広間とし、喫煙室などの窓は閉鎖、デリック・ポストは2組のみ設置されたため、報国丸などの客船の均整美とは異なる船容姿となりました。
 昭和17年10月1日、連合艦隊直属となり内地を出撃、11月30日までシンガポールを起点に通商破壊作戦と潜水部隊への補給任務に当たりました。次いで、ニューギニア攻略作戦に参加、歩兵第42連隊第2大隊、道路隊、通信隊など3724名を乗せて12月2日シンガポールを出撃、ラバウルを経て12月18日マダンに揚陸開始したが、当地で空襲を受けて船体に大破口を生じたため、一部を揚げ残したまま12月20日ラバウルに帰投しました。
 更に昭和18年(1943)1月〜2月はニューギニア方面への輸送任務に携わり、朝鮮駐屯の第20師団輸送の丙1号輸送、中国北部駐屯の第41師団を急送する丙3号輸送、スラバヤ駐屯の歩兵第11連隊を輸送しました。また、4月には連合艦隊の指揮下に入り、南洋方面の輸送任務に就いたが、9月以降は、上海に集結した第14師団をラバウルに急送する丁2号輸送と同目的の丁4号輸送に加わっています。
 次いで、昭和19年(1944)になると、同年6月20日門司発ヒ67船団12隻(海防艦など9隻護衛)で7月9日シンガポール着、7月23日マニラ発マサ09船団(護衛2隻)で7月28日サンジャク着、更に8月25日門司発ヒ73船団14隻(護衛7隻)で9月5日シンガポール着の輸送任務に当たりました。その後、9月16日海南島を出帆、他の輸送船2隻と共に門司に帰る途中の20日、馬公付近で中国内陸基地発進の米機B−25の空襲を受け、4番艙左舷と左舷プロペラを損傷、右舷機のみの11ノットで高雄、基隆に寄港、基隆で仮修理の後、駆逐艦・響に伴われて11月7日出航して11ノットで北上しました。
画像 そのうち、響に赤痢患者が多数発生して護衛任務が遂行不能となり、佐世保に先航したため護国丸のみの航海となり、古志岐島灯台沖を航行中の11月10日03:40、魚雷2本が機関室と2〜3番艙に命中、大音響で炸裂しました。本船は忽ち30度左傾、発電機、無線機が破壊されて船内は暗黒、遭難信号も打てない状態になりました。立ち往生する護国丸の孤影を見て大胆になった米潜水艦ハーブが、03:55、突然、右舷前方に司令塔を現しました。船砲隊が傾いたデッキから射撃に移ると潜水艦は直ちに姿を消したが、数分後、深手を負った船に真横から狙いを定めた魚雷1本が4番艙に打ち込まれました。輸送指揮官・水野孝吉大佐は全員に「天皇陛下万歳」を奉唱させて退船を命じたが、04:06、護国丸は船首を直立させて暁闇の東シナ海(北緯33−31、東経129−19)に海没しました。輸送指揮官以下の兵員47名、台湾からの特別志願兵など217名及び乗組員60名が戦死しました。
 かくして、本船は僅か2年の短命に終わったが、提出された事故報告書には船長の苦渋の思いが滲んでいます。基隆で現地海軍技術官などが本船の完全修理を勧めたが、輸送指揮官は敵情を考慮して長時間の入渠を希望せず仮修理で出航したこと、単独航行を余儀なくされたことなどに触れて、次のように結んでいます。「――本船の如き優秀船に対しては優秀なる護衛を附すべかりしを当局においても此の点など閑視せるに非ざりしや。結局片舷機のみにての単独航行にて敵潜の攻撃に乗ぜられ、遂に沈没せしむるに至り、多数の戦死者を出したるは遺憾の極みなり――」。

護国丸戦没者:鳴海巌機関長ほか甲板部、機関部、通信部及び事務部乗組員計60名

香椎丸(国際汽船→大阪商船)
 下図の本船は昭和11年(1936)に建造された貨物船で、その要目は長さ138m、幅19m、主機ディーゼル8595馬力、最高速力19.4ノット、総トン数8407トンです。
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 香椎丸は船質改善助成施設の適用を受けて発注され、ロイド船級を取得し、Lux-Rich式煙管型警報装置と炭酸ガス消火装置を組合わせた警報、消火装置を装備していました。
 初航海は日本郵船の用船による欧州線で、その後昭和13年(1938)4月神戸発の7次航を最後に商業航海から撤退、日中戦争時には陸軍御用船となっています。その後の昭和16年(1941)4月9日には、当時最強と言われていた第5師団を乗せた12隻の船団に加わり唐津を出撃、F1作戦(浙東作戦:援蒋物資搬入路の遮断作戦)のために鎮南、石浦、海門、牛浦に部隊を輸送しました。
 更に昭和16年11月7日宇品発、上海で第25軍司令部、第5師団を乗せて、海南島・三亜経由で12月7日タイ湾フコク島沖に集結、マレー半島攻略の右翼隊(シンゴラ上陸)第1分隊5隻に属して、8日04:00、敵前上陸に参加、揚陸を終えてシンゴラ沖で停泊中に敵潜水艦の雷撃を受けて大破しました。
 修理後の昭和17年(1942)〜同18年(1943)における詳細行動は不明なるも、昭和19年(1944)にフィリピンへの米軍反攻が感じられるようになると、マニラへの部隊輸送任務が課せられました。同年7月3日門司発のモマ01船団で15日マニラ着、また、8月6日門司発のヒ71船団で24日マニラ着、更に10月12日上海発の第1師団(満州駐屯)を乗せて25日マニラに到着しました。この前日から神風特別攻撃機隊の体当たり攻撃が開始され、シブヤン海海戦、サマール沖海戦などレイテ島近辺の水域は凄惨な様相を呈しつつありました。また、これより以前の昭和18年11月、国際汽船は大阪商船に合併され、本船も大阪商船所属になっています。
画像 一方、昭和19年10月17日、米軍がレイテ湾のスルアン島、ディナガット島に上陸したため、急遽、捷一号作戦が発動され、これに伴いレイテ島への特別輸送作戦(多号作戦)が開始されました。これに対応するため、香椎丸はマニラで高射砲、機関砲各4門、機銃20基で武装された後、第2次輸送作戦の第3梯団で31日09:00出撃、選ばれた特攻船団は香椎丸ほか、後に改めてご案内する金華丸(国際汽船→大阪商船)、高津丸(山下汽船)、能登丸(日本郵船)という高速船ばかりで、第1師団(玉兵団)の主力1万1千名と第26師団(泉師団:中国北東部駐屯)の一部をオルモック湾に強行輸送するものでした。香椎丸は泉師団1200名と重資材を搭載、船団は海防艦・占守など4隻に護衛されてミンドロ島、チカオ島、マスバテ島の沖を通過して11月1日18:30、レイテ島オルモックに突入、海軍艦艇が煙幕を張る中で揚陸を開始、2日昼に来襲したB−25爆撃機により能登丸が撃沈されたが、香椎丸は揚陸を完了しました。左図は空爆下を航行する香椎丸です。
 更に11月8日06:30マニラ発の第4次輸送作戦に参加、船団3隻で泉師団1200名と重資材を搭載して航行、本船は11月1日夕の空爆で船橋を破壊されていたが、18:30オルモック南方のイピル沖に入泊して揚陸を開始しました。10日に揚陸を完了した船団が、駆逐艦・秋霜、第13号海防艦などの護衛でオルモック湾を出ようとしたとき、米第13空軍B−25、P−47、P−38の戦爆連合機の攻撃に曝され、香椎丸は直撃弾5発で火災を発生して12:30沈没、この空爆で高津丸など5隻も撃沈されました。

大徳丸(大阪商船)
 下図の本船は昭和19年(1944)に建造された貨物船で、その要目は長さ137m、幅18m、主機蒸気タービン2700馬力、最高速力13.1ノット、総トン数6923トンです。
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 大徳丸は戦時標準船(2A−1型)として昭和19年6月完成、船舶運営会の配船で同年9月6日09:00、鹿児島を発したカタ626船団15隻で那覇を経由、9月15日基隆に到着したのが初航海でした。更に10月22日14:00門司発のモマ06船団に編入、これはマニラへの増援軍を輸送するもので、第1号、3号、7号海防艦が護衛する11隻からなる船団は、途中で幾度も米潜水艦の待伏せに遭遇、船を喪失しながら航行、23日、客船・月山丸(4515総トン、北日本汽船)が被雷して大破、24日には御影丸(2741総トン、武庫汽船)が撃沈されました。その後、高雄で船団を12隻に改編してバシー海峡を進むうち、11月2日、当シリーズ(61)と(60)でそれぞれご案内した、あとらす丸が被雷、はんぶるぐ丸が撃沈されたが、船団は台風の中を9日マニラ湾に辿り着きました。
 同湾で大徳丸など計4隻の輸送船が荷役を終えて停泊中、13日になり米38機動部隊艦載機の攻撃に曝されました。本船は海軍砲1門、13ミリ機銃4挺で応戦するも、07:55に来襲した7機編隊に狙われ、爆弾2個が4番艙を直撃、うち1弾は左舷外板を貫き舷外で爆発、忽ち発生した火災は鎮火不能なまでに至り、12:20、乗組員は救助艇に乗り移りました。艙内の火災で緩んだ外板のリベット隙間から浸水し始め、本船は18:00頃に沈没、擱座したが、大徳丸の船体は中央部を頂にして、前後部が山形に湾曲したまま沈下しました。

(注)太平洋戦争時に日本陸海軍が編成した[輸送船団]、[戦砲隊]に関する参考資料例:
1.船舶砲兵   血で綴られた戦時輸送船団史(駒宮真七郎)
2.続・船舶砲兵 救いなき戦時輸送船の悲録(駒宮真七郎)
3.戦時輸送船団史(駒宮真七郎)



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悲運の戦時日本商船(20)
 当シリーズの前回(19)に引続き、レイテ特攻輸送作戦(多号作戦)をご案内します。 ...続きを見る
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2008/08/20 07:22

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