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help リーダーに追加 RSS 太平洋戦争と日本商船動向(81)

<<   作成日時 : 2007/09/24 09:00   >>

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 今回で戦没船に係る当シリーズを終えることとなりました。本テーマは前回(80)でも記した通り、2002年5月に刊行された、野間 恒編著商船が語る太平洋戦争=商船三井戦時船史=」を引用してご案内したものです。同書は野間氏が執筆を企図されてより、3年9ヶ月を経て完成を見た大著(B5版、620頁超)で、それを当ブログ筆者の都合で分割ご紹介したため、昨年2006年6月の第1回投稿以来、1年3ヶ月を要する処となりました。この間、当ブログをご覧頂いた方々から、適宜、コメント等が寄せられ、戦後60有余年を経たにも拘らず、今なおこの分野への関心の高さを実感した次第です。
 最終回に当たり、原著者の野間氏に深甚なる敬意と謝意を表して本シリーズの結びと致しますが、筆者の独断で誠に勝手ながら、戦没船の一部(拿捕船を中心)を無断割愛したことをお断り致します。
 なお、本稿末尾に原著の「あとがき」から抜粋して転載付記し、本書誕生の経緯をご案内することと致しました。

高砂丸(大阪商船)
 下図の本船は昭和12年(1937)に建造された客船で、その要目は長さ150m、幅19m、主機蒸気タービン12641馬力、最高速力20.2ノット、総トン数9315トンです。
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 高砂丸は神戸〜基隆線において、当時、最大、最新及び最高速を誇った客船であったが、巨大な2本煙突の堂々とした船容で、船首は優美なファッション・プレートで合成され、船尾は鋭い巡洋艦型の流線で包まれていました。ハウス周りも曲線を多用したフォルムで構成されていたほか、乗客の居住性に配慮して暴露甲板の一部を除き舷弧と梁矢を全廃した斬新な設計でした。船艙は船首尾タンク、5つの貨物艙、ボイラ室、機械室と8つの水密隔壁で仕切られていました。また、主機関は三菱長崎造船所製の衝動式2気筒、2段減速付き蒸気タービン2基を装備、主復水器は垂下式として機械室スペースを減少させ、更に主軸受けも減速装置車室内に組み込んで、スペースと重量削減が図られていました。
 昭和12年5月10日〜12日、東京芝浦岸壁で盛大に披露され、18日には神戸中突堤で一般公開された後、20日神戸から基隆向け初航海の途に就いたが、本船の就航で当シリーズ(54)で述べた[瑞穂丸]が大連線に転配されています。高砂丸は昭和16年(1941)11月海軍に徴用されるまで、内地〜台湾間を月3往復したが、同航路は台湾総督府の命令航路であったため、到着時刻が厳しく規制されていました。そのため荒天航海での遅れを取り戻し得るように、30%ものシー・マージンを有していた由で、当時の乗組員は「15ノットで走っていても、少し石炭を余分に焚くと忽ち20ノットに増速した」と語っています。
 徴用後の高砂丸は呉鎮守府所属の病院船となり、昭和16年12月10日付けで連合艦隊に所属しました。その後の昭和17年(1942)6月のミッドウェー作戦にも参加しており、これ以降、ガダルカナル水域まで脚を延ばして傷病兵還送に携わったが、この間に遭遇した事故や事件は以下の通りです。
 先ずガダルカナル島攻略作戦さなかの昭和17年11月1日、ショートランド泊地で至近弾を受けて損傷、次いで、昭和19年(1944)4月9日、パラオ環礁進入の際、ヨオ水道で触雷して擱座しました。このとき本船は陸上のポンプを動員して排水、1週間で浮揚したが、小西三郎操機手によれば、併行して乗組員全員がバケツで海水の排出に当たった、と語っています。更に昭和20年(1945)7月3日、ウェーキ島300マイル沖で米潜水艦マレーに臨検されているが、当シリーズ(29)で述べた[ぶゑのすあいれす丸]のような不運にも遭遇せず、戦後まで生延びています。
画像 そして敗戦後も、いち早く重要な任務が課せられたが、それは食料が途絶えて餓死寸前の南方の島々に残された兵員の復員輸送でした。この任務には本船と興安丸(7080総トン)が当たり、高砂丸は昭和20年9月1日東京湾を出航してメレヨン島に向かい、10月2日別府に帰着しました。また、昭和24年(1949)にはシベリア抑留兵士の復員輸送が開始され、本船はナホトカ〜舞鶴間を繰返し往復しています(図は舞鶴に着いた引揚げ軍人たち)。
 引揚船が到着する舞鶴では{岸壁の母}など、様々な悲惨なシーンが繰り広げられたが、三隅田良吉2等運転士も別の劇的な状況を眼にしており、それは高砂丸がナホトカ引揚者第1陣2030名を乗せて帰還した際、「北海道で独立国を造るのだ」と豪語して乗船した、[洗脳集団]兵士らが阿里山桧で内張りされた貴賓室や上級船室を占拠、毎朝デッキでインターを歌う姿でした。その反面、共産党不加入の[日の丸組]兵士らは階級の上下に関わりなく、船艙内に押し込められていたのを見て、同じ日本人なのに如何かという複雑な思い出が胸裏から去らない、と三隅田運転士は述懐しています。
 その後、引揚任務を終えた高砂丸は昭和28年(1953)広島県因島沖に係留され、折から再開された南米移住航路に、本船を改装して投入する案が浮上したが、石炭焚きタービン船であることが障害となり、他に適当な使途が見つからぬまま、昭和31年(1956)3月売却、解体されました。

有馬山丸(三井物産)
 下図の本船は昭和12年(1937)に建造された貨物船で、その要目は長さ145m、幅19m、主機ディーゼル9047馬力、最高速力19.3ノット、総トン数8697トンです。
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 有馬山丸は政府の第3次船質改善助成施設の適用を受けて完成、昭和12年7月30日横浜からサンフランシスコ経由で初航海の途に就きました。その後の昭和13年(1938)5月、ロサンゼルス港域内で貨物船ウォルター A. ルッケンバッハと衝突、6番艙に浸水する事故を起こしており、また、昭和16年(1941)4月ニューヨークへ向けて航行中に、ケープ・コッド運河南方で岩礁接触事故を生じ、現地造船所へ1週間入渠し修理したことがあります。
 次いで、太平洋戦争中は海軍運送船となっているが、判明している行動記録は以下の通りです。昭和19年(1944)2月16日門司発のヒ45船団7隻に加わり、駆逐艦・汐風の護衛で27日全船無事シンガポールへ到着、復路はヒ54船団4隻で3月29日出航してサンジャク、高雄を経由して4月24日門司に帰投しました。また、5月29日ヒ65船団10隻、特設空母・海鷹、練習巡洋艦・香椎など7隻の護衛で、シンガポールへ向かう途中の6月2日、バシー海峡で雷撃を受けて損傷、12日シンガポールで応急修理を受けています。この事故についての米海軍記録では、潜水艦ピクーダが同船団を攻撃した際、各船の回避行動中に有馬山丸が神州丸に衝突、神州丸の船尾に搭載されていた機雷が爆発して船尾が吹き飛ばされた、と記されています。その後本船はシンガポールで部隊60名、便乗者100名、ボーキサイトと重油を乗せてヒ80船団に参加、8月15日門司に帰着しました。
 また、昭和20年(1945)3月陸軍に徴用され、シンガポールへ1往復したが、このルートでの危険が高まったため、敦賀と舞鶴を起点として日本海で行動するうちに終戦を迎えました。
 更に本船は戦後残存した数少ない外航船の1隻として、三井船舶の遠洋活動の主力となって活躍しています。最初はSCAJAP番号A016を船腹に記し、船舶運営会の下でタイ米輸送に従事、昭和24年(1949)4月25日、タイ米を満載して横浜着、翌朝20番ブイに係留の際、船底が白灯台の基礎石に接触、2、3番艙に浸水し座礁しています。
 その後の昭和25年(1950)4月海運の民営還元、一方では朝鮮動乱により遠洋航路に本格的に配船され、昭和26年(1951)2月7日、日本船としては戦後最初のニューヨーク入港船となり、同年6月にはニューヨーク航路の定期配船がGHQから許可され、本船が就航しました。
 その後は昭和28年(1953)7月、ターボ・チャージャー付きの主機関に改造されたが、昭和42年(1967)東洋海運に売却、桂川丸と改名されたが、引続き三井船舶に用船されています。その後の記録には昭和43年(1968)朝日海運に移り、朝久丸となったと記されているが、昭和45年(1970)2月に解体されるまで33年の長寿を全うしています。

 「商船が語る太平洋戦争」[あとがき]より(抜粋):
『本書の執筆を思い立った1999年7月20日は、村田省蔵逓信大臣が唱導して制定された「海の記念日」56周年の日であった。30年前の「日本郵船戦時船史」と異なり、生存乗組員を探し出すのは容易でないと思った。しかし、今やらねば商船、三井乗組員の声は永久に埋もれてしまう、という悲愴な想いからの決断であった。予期した通りこの探索は困難を極めた。よほど新聞広告を出そうかと思ったものの踏み切れず、諸先輩からご協力やヒントを頂きながら少しずつ捜し出した。更に1年ほど探索に時間をかければ、もう少しの方々は見出せたかも知れぬが、自分の体力、それ以上に、遭難乗組員の皆さまの加齢のことを考えると、これ以上の猶予できないと執筆を開始した。(この間、証言を頂いた方が3名も鬼籍に入られ、焦りを募らせつつ身体に鞭を打ち続けた)。生存船員の方々から、「よくぞ(本書刊行を)思い切ってくれた」「どうか身体に気をつけて頑張ってほしい」との言葉が幾度も寄せられた。3年9ヶ月、暁闇の寝床から私を引き起こしたものは、{戦没者と生存乗組員の皆さまが待って下さっているのだ}との想いであった。
 {戦没した船と海員の資料館}が神戸にある。某日老婦人が来訪し、亡夫が乗っていた船を尋ねた。その船の写真を受け取ると、写真を愛しげに胸に抱きながら去っていった、という話を聞いた。生存乗組員からの聞取りや報告書を調べるうちに、船と運命を共にする船長、身命を賭して将兵と貨物を降ろし、沈み行く船に涙し、乗客に筏の席を譲って泳ぎ去る乗組員などの姿に接し感動に咽びながら筆を進めた。また、船艙に詰め込まれた幾千人もの将兵が魚雷一発で水底に沈むこのシーンが重なるにつれ、町や村から歓呼の声で送られてきた兵士たちが、一発も弾を撃たぬまま恨みを呑んで海没した事実の大きさに慄いた。これを神戸の老婦人の場面と比べ合わせると、太平洋戦争で起こった悲劇の根深さに圧倒され、これは語り伝えてゆかねばならない、と強く感じた。―― (後略)』


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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
長期にわたる商船隊の戦記シリーズの掲載ご苦労様でした。たまたま私は生き残り船員のひとりですが、勇ましい艦隊の戦記は沢山でていますが、兵站が確保されなければ継戦力維持ができないのに、日本の商船隊護衛戦略が未熟のため、数多の増員部隊、武器弾薬、戦略物資が海底の藻屑となり、これら商船の乗組員の損耗率が陸海軍より高率という悲劇を二度と起こさないためにも真実の記録は貴重でありますので、適時更なる商船戦記の続編を望みます。
kane
URL
2007/09/28 19:57
hokura です。
ご丁寧なコメントを頂き有難う存じます。
一休み後、商船・三井以外の戦没船について、別の機会にご案内したいと考えております。今後とも宜しくお願いいたします。
hokura
2007/10/03 10:44

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