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当シリーズの前回(14)でご案内した「ヒ71」船団は、船団構成及び護衛戦隊共に申し分ない陣容と思われていたにも拘らず、予想を上回る被害を受け、残念ながら期待に応えられませんでした。しかしながら、その後アメリカ軍はフィリピン・レイテ島に昭和19年(1944)10月20日に反攻上陸、フィリピン戦線の彼我の攻防戦は激化の一途を辿り、正に風雲急を告げる状況下にありました。その最中に企図された今回ご紹介する「ヒ81」船団は、「ヒ71」船団と同様にフィリピン防衛軍の増派、南方石油の積取りをそれぞれの目的とした、以下の陸軍特殊輸送船を含む貨物船(5隻)とタンカー(5隻)で編成されました。 「ヒ81」船団: 聖川丸(川崎汽船) 昭和12年(1937)に建造された貨物船(在来型)で、その要目は長さ155m、幅19m、主機ディーゼル8810馬力、最高速力19.5ノット、総トン数6864トン 摩耶山丸(三井船舶) 昭和17年(1942)に建造された貨物船(在来型)で、その要目は長さ142m、幅19m、主機ディーゼル12772馬力最高速力20.8ノット、総トン数9433トン 本船については[こちら]も参照下さい 神州丸(陸軍省) 本船は遠隔地において陸軍部隊の上陸作戦を行うため、昭和9年(1934)に建造された特殊輸送船で、その要目は長さ144m、幅22m、主機2段減速蒸気タービン7500馬力、最高速力20.4ノット、総トン数8108トン 本船については[こちら]も参照下さい 吉備津丸(日本郵船) 昭和18年(1943)に建造された陸軍特殊輸送船(日本郵船運航)で、その要目は長さ144m、幅20m、主機2段減速蒸気タービン13047馬力、最高速力20.3ノット、総トン数9574トン 本船については「こちら」も参照下さい あきつ丸(日本海運) 昭和17年(1942)に建造された陸軍特殊輸送船(日本海運運航)で、陸軍初の特設航空母艦としても利用できるように設計されていたが、その要目は長さ152m、幅20m、主機2段減速蒸気タービン13435馬力、最高速力21.1ノット、総トン数9190トン 東亜丸(飯野海運) 昭和19年(1944)に建造されたタンカー(1TL型戦時標準船)で、その要目は長さ161m、幅20m、主機2段減速蒸気タービン8600馬力、最高速力18.5ノット、総トン数10023トン(画像は同型船) ありた丸(石原汽船) 昭和19年(1944)に建造されたタンカー(2TL型戦時標準船)で、その要目は長さ157m、幅20m、主機2段減速蒸気タービン5000馬力、最高速力15.5ノット、総トン数10238トン(画像は同型船) 本船については[こちら]も参照下さい みりい丸(三菱汽船) 昭和18年(1943)に建造されたタンカー(1TL型戦時標準船)で、その要目は長さ161m、幅20m、主機2段減速蒸気タービン8600馬力、最高速力18.4ノット、総トン数10565トン 橋立丸(日本海洋漁業→日本水産) 昭和19年(1944)に建造されたタンカー(1TL型戦時標準船)で、その要目は長さ161m、幅20m、主機2段減速蒸気タービン8600馬力、最高速力18.5ノット、総トン数10031トン 本船については[こちら]も参照下さい 音羽山丸(三井物産→三井船舶) 昭和11年(1936)に建造されたタンカー(在来型)で、その要目は長さ156m、幅20m、主機ディーゼル7802馬力、最高速力18.8ノット、総トン数9204トン 本船については[こちら]も参照下さい 以上のうち「聖川丸」と「摩耶山丸」は在来型貨物船であるが、聖川丸は昭和16年(1941)9月に海軍が徴用し水上機母艦に改造されて、太平洋戦争開戦後からサイパン、トラックやラバウル方面で、船団護衛などの任務に携わった後、昭和18年(1943)4月の編成替えで海軍運送船に改装されました。また、「神州丸」、「吉備津丸」及び「あきつ丸」は陸軍特殊輸送船であったが、上記したように[あきつ丸]は航空母艦としての装備も有しており、本船には海上挺身基地第20大隊とその特攻艇(104隻)、第23師団(旭兵団)第64連隊主力の計2576名が乗船、他の特殊輸送船及び貨物船には、旭兵団やその他の兵員と隊属貨物が積載されていました。一方、東亜丸ほか計5隻のタンカーは空船で、シンガポールへ石油積取りに行くものでした。 ところで、船団の護衛は元ドイツ商船scharnhorstを改造した空母・神鷹(旗艦、20900排水トン)、駆逐艦・樫、海防艦・択捉、大東、対馬、昭南及び久米が当たりました。 船団は昭和19年(1944)11月14日に伊万里湾(佐賀県北部)を発し、高雄に向かう予定航路(大陸沿岸迂回ルート)を之字運動(ジグザグ航法)を繰返して航行中、午後遅くなって敵潜警報が発せられたため、各艦船は総員配置について厳重警戒に当たっていたが、間もなく状況待ちのため五島列島宇久島水道で仮泊しました。 翌15日早朝、船団は更に警戒を強化し西方に向け済州島海域から黄海に向かうコースをとり、出帆後まもなく護衛空母から索敵機が飛立ち上空からの対潜警戒を開始しました。しかしながら、15日正午頃、突然、あきつ丸の左舷船尾に魚雷命中、同時に上甲板に装備されていた弾薬や爆雷が誘爆して死傷者が続出、船体の後部1/3が瞬時に沈下、船体は裏返しになって魚雷命中から2〜3分後に沈没しました。その位置は五島列島福江島京ノ岳西北40キロメートル付近の北緯33−17、東経128−11でした。このとき兵員2093名と船砲隊140名が戦死したが、生存漂流者は護衛艦に救助された後、翌16日神州丸に移乗収容されました。 その後残りの船団は続航していたが、11月17日18:15、摩耶山丸が雷撃を受け1本が機関部中央、他の1本が機関部後方に命中、船体は瞬時に横転して轟沈しました。沈没位置は済州島西方120キロメートル、北緯33−21、東経124−42付近で、乗組員55名、乗船部隊3187名、船砲隊197名が戦死しました。 更に摩耶山丸沈没後まもなく、神州丸の右後方を航行していた空母・神鷹の左舷に連続数本の魚雷が命中、轟音とともに火柱を噴き上げ、全艦火達磨となって沈没しました。残された各艦船は僚船との連携を取りながら、一斉に爆雷投下を開始しながら航行を続けたが、果たして敵潜を制圧できたか否かは不明でした。 かくして「ヒ81」船団はあきつ丸、摩耶山丸及び空母・神鷹を失い、またしても芳しからざる結果を招来し、兵員のほぼ半数と多数の武器弾薬が海没すると言う大損害を蒙ったが、残りの船団は敵潜の執拗な攻撃をかわし、黄海横断後に南下を続け、11月25日正午、馬公(膨湖諸島)東側に至り、ここで聖川丸、神州丸、吉備津丸はマニラ方面へ、タンカー船団のうち、みりい丸は馬公を経由して高雄へ入港、その他はシンガポールへ向かいました。 (注)その後の「聖川丸」、「東亜丸」及び「みりい丸」について 聖川丸: 昭和20年(1945)1月29日07:30門司発、「ヒ93」船団3隻、護衛艦3隻の護衛で2月12日シンガポール着 昭和20年2月22日04:00基隆発、「タモ44」船団3隻、護衛艦3隻の護衛で2月28日門司着 昭和20年4月1日基隆発、「タモ53」船団2隻、護衛艦4隻の護衛で4月13日門司着 昭和20年7月22日、山口県室津沖志田海岸付近で空爆により任意擱座し終戦を迎えたが、同年11月22日荒天のため横転沈没 昭和23年(1948)8月船体引揚に着手、昭和24年(1949)10月完全修理を終えて、外航第1級船として復活、第1次航としてフィリピンへ鉱石積取りに向かう 昭和25年(1950)8月以降、北米航路(シャトル)、次いでニューヨーク航路へ復帰就航 昭和37年(1962)7月以降、オーストラリア航路へ就航 昭和38年(1963)8月神戸汽船に売却されたが、引続き川崎汽船が傭船し、中南米西岸線に就航 昭和44年(1969)12月売却、解体された 東亜丸(太平洋戦争で残存): 昭和25年(1950)6月朝鮮戦争でアメリカ軍が3ヶ月間傭船、同年11月20日ラスタヌラに向け原油積取りに向かう 昭和28年(1953)8月7日横浜発、バーレン島へ原油積取りに向かう 昭和31年(1956)9月20日、内外海運へ売却 昭和35年(1960)12月、アラビア石油のカフシに於けるステーション・タンカーとなる 昭和38年(1963)2月、シンガポールで売却後解体された みりい丸: 昭和19年(1944)12月1日高雄発、「ヒ83」船団8隻、護衛艦5隻でシンガポール向け出帆、台湾を離れるにつれて季節風が吹き、次第に天候が悪化する中を対潜警戒を厳重にしながら航行中、3日02:00頃、海南島東方で僚船・誠心丸が雷撃を受け航行不能になり、かつ、海防艦・第64号が1発の魚雷で轟沈しました。これにより付近海域に敵狼群潜水艦の存在が明らかになったため、各艦船は死に物狂いで之字運動(ジグザグ航行)を続けるうち、大胆にも本船のすぐ近くを浮上して同行する敵潜を発見したため、本船はこれに対して直ちに戦闘開始、急速潜航する敵潜に果敢に爆雷攻撃を行ったが、撃沈し得たか否か確認には至りませんでした。 次いで、船団は3日10:00頃、楡林港内に退避したが、翌日、本船は航行不能になって漂流中の誠心丸を曳航するため、友軍機からの情報に基づいて現場に向かい、5日01:00頃同船を発見、16:30漸く誠心丸の曳航を開始して、6日12:00頃、バタンガン岬北方のツーランに辿り着き、誠心丸に乗船していた約3000名の兵員を上陸させた後、みりい丸はサンジャク沖でタンカー3隻と船団を組んで、12月18日にシンガポールへ到着しました。その後、本船は重油15000トンを搭載して、8隻の船団で12月25日にシンガポールを発して帰路についたが、これが本船の終焉航海で、その動向は次の通りでした。 28日午後、船団はサンジャク着、29日カムラン湾、30日バンフォン湾、31日キノン湾に仮泊して、昭和20年(1945)の元旦を迎えました。次いで、船団は3日未明に海南島南岸を通過して日本本土に向かったが、遺憾ながら本船は正午直前に磁気機雷に触れ小破したので、船団から離脱して4日朝に香港へ入港、ここで修理を行って1月10日13:00香港発、11日夕刻馬公に到着しました。しかし、この頃台湾全土は米機動部隊艦載機による猛爆に曝されていたが、本船に課せられた任務は高雄港の北に在る左営に着岸して搭載重油を揚陸することでした。このため敵機の攻撃をかわしながら、13日に左営にて早朝から重油陸揚げ作業にかかり、15日09:00終了と共に離岸して港外へ避難しました。しかしながら、09:55、高雄左営要港入口で空爆を受け、10:40、擱座、船体は放棄されました(乗組員10名戦死)。 |
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