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help リーダーに追加 RSS 悲運の戦時日本商船(16)

<<   作成日時 : 2008/07/05 08:31   >>

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 昭和19年(1944)11月は日米間のフィリピン・レイテ島攻防戦をはじめ、日本軍のルソン島防衛戦に係る兵員と隊属物資の強行輸送作戦、あるいはフィリピン全域や台湾方面をも含めて、米機動部隊艦載機の相次ぐ来襲などが重なる由々しき時期で、これまで当シリーズで見てきたように、フィリピン近海や航路上で撃沈された日本艦船が激増し、日本軍は次第に窮地に立たされつつありました。
 このような戦況下にあって、先に当シリーズ(15)で述べた「ヒ81」船団に続いて、この船団を追うように昭和19年11月15日に門司(六連島泊地)を出航した「ミ27」船団が、「ヒ81」船団とほぼ同じ海域で潰滅的被害を受けたが、今回はこれについて以下ご案内します。

「ミ27」船団
江戸川丸(日本郵船)
 昭和19年(1944)に建造された貨物船(2A型戦時標準船)で、その要目は長さ137m、幅18m、主機2段減速蒸気タービン2500馬力、最高速力12.6ノット、総トン数6968トン(画像は同型船)
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阿波川丸(川崎汽船)
 昭和19年(1944)に建造された2A型戦時標準貨物船で、竣工後直ちに応急タンカーに改造されたが、その要目は長さ137m、幅18m、主機2段減速蒸気タービン2000馬力(計画)、航海速力10ノット、総トン数6925トン
 本船については[こちら]も参照下さい
盛祥丸(合名会社・小熊商店→東和汽船)
 1919年(大正8)にイギリスで建造された貨物船、イタリア(トリエステ籍)船として就航していたAntonio Tripcovichを、昭和2年(1927)に小熊商店が購入して盛祥丸と改名したもので、その要目は長さ125m、幅16m、主機3連成レシプロ機関2900馬力、最高速力13.0ノット、総トン数5463トン
鎮海丸(東亜海運)
 昭和18年(1943)に建造された貨物船(1C型戦時標準船)で、その要目は長さ98m、幅14m、主機・不詳(1800馬力)、最高速力14.0ノット、総トン数2827トン(画像は同型船)
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延喜丸(日本郵船)
 昭和19年(1944)に貨物船(2A型戦時標準船)として完成後、応急タンカーへの改造工事がなされたが、その要目は長さ137m、幅18m、主機2段減速蒸気タービン2700馬力、最高速力13.0ノット、総トン数6988トン
 本船については[こちら]も参照下さい
逢坂山丸(三井船舶)
 昭和19年(1944)に2A型戦時標準型貨物船として竣工後に、応急タンカーへ改造されたもので、その要目は長さ137m、幅18m、主機2段減速蒸気タービン2500馬力、最高速力13.0ノット、総トン数6925トン
 本船については[こちら]も参照下さい
松浦丸(三菱合資→三菱商事→近海郵船→日本郵船)
 大正2年(1913)に三菱合資がイギリスに発注し建造された貨物船で、その要目は長さ101m、幅15m、主機3連成レシプロ機関1763馬力、最高速力10.0ノット、総トン数3184トン
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杭州丸(大阪商船)
 明治44年(1911)に造船奨励法に基づき建造された、造船所ストック・ボートの大運丸を大正2年(1913)に大阪商船が購入して杭州丸と改名したもので、その要目は長さ90m、幅14m、主機3連成レシプロ機関1241馬力、最高速力11.5ノット、総トン数2812トン
 本船については[こちら]も参照下さい

 以上8隻で「ミ27」船団が編成され、昭和19年(1944)11月15日16:00、門司を発して先ず高雄(台湾)へ向かいました。これらの護衛に当たったのは、海防艦・第61号、第134号、掃海艇・第101号、駆潜特務艇・第152号、第156号であったが、この護衛戦隊は先にご案内した「ヒ71」あるいは「ヒ81船団に於ける護衛艦と比較してかなり見劣りのするもので、また、船団自体1隻の高速優秀船も含まれておらず、前途が相当危ぶまれると言わざるを得ませんでした。
 船団は原速8ノットで朝鮮南西岸を目指して航行を開始、この航路は前日の11月14日に出帆した「ヒ81」船団とほぼ同じコースで、船団は極めて厳重な警戒態勢の下で西進を続けたが、17日22:00以降、済州島西方150キロメートル付近において、またしても敵狼群潜水艦に捕捉されて、その猛攻を受ける状況におかれました。
 最初に敵潜の餌食になったのは盛祥丸で、22:00頃、第1弾が本船の右舷第3番艙、第2弾も同じく3番艙に命中、このためボイラ室への浸水により航行不能となり、直ちに応急修理を施したものの、船体は刻々と沈下したため、22:30、船長は全員をボートへ移乗させました。そこへ第101号掃海艇が来援して復旧作業を続行中の翌18日01:30頃、敵潜が浮上してきたため、本船は装備していた全火器で応戦したが遂に弾薬が尽き、そこを敵潜は03:17再度雷撃を敢行、これが船体中央部に命中して、遂に本船は沈没しました。その位置は済州島西北西の海面、北緯33−35、東経124−34付近でした。その後、第61号海防艦と第101号掃海艇が同日11:30頃まで遭難者の救助に当たったが、このときの戦死者は乗組員36名、便乗者412名でした。
 次に攻撃されたのは江戸川丸で、17日22:05、右舷第3番艙に雷撃を受け、搭載していたガソリンに引火、忽ち大火災が発生したため、船長は消火の見込み無しと判断、22:30総員退船を命じました。船体は火炎に包まれながらなお浮上していたが、18日01:20頃、再度の雷撃を喫して轟沈しました。その位置は盛祥丸の海没位置に近い、北緯33−35、東経124−35であったが、乗組員70名、乗船部隊1997名、船砲隊46名が戦死しました。
 また、17日23:40、逢坂山丸の第4番艙に魚雷が命中、爆発と同時に火災が発生して忽ち全船火達磨となり、続いて第2弾が船橋下に命中して、船体は右舷に傾斜しながら沈没、その位置は済州島西方の北緯33−30、東経124−30付近であったが、乗組員62名、警戒隊及び便乗者80名が戦死しました。
 更に18日04:30頃、鎮海丸が左舷中央部に魚雷2本を受け、1本は不発であったものの爆発の威力は凄まじく、忽ち左舷40度に急傾斜し、間もなく船尾が上空に持ち上がり、垂直となって沈没しました。その位置は逢坂山丸と同じ海域の北緯33−30、東経124−30であったが、乗組員22名、便乗者17名が戦死しました。
 かくして「ミ27」船団は黄海通過中に4隻を失い、更なる前進は不利と判断して残りの4隻はバラバラになって舟山列島などの避泊地へ逃込み、その後、阿波川丸と杭州丸は高雄へ行けなかったが、延喜丸と松浦丸は高雄へ入港しています。

(注)その後の「松浦丸」について
 昭和20年(1945)1月3日基隆港に停泊中、空爆を受けて小破、更に同月9日再爆撃により小破
 昭和20年7月27日舞鶴を船団2隻で発して、朝鮮東岸を北上しながら羅津に向かったが、天候が次第に悪化する中を航行中、濃霧のため視界が利かず、7月30日04:30頃、梨津湾南岸で岩礁に接触し05:50任意擱座、その後の8月7日船体放棄

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