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船の速力と航程測定法
船の速力と航程測定法 今回は戦没船に関する投稿を小休止、テーマを変えて船の速力を知る方法、すなわち船速測定法についてその一端をご紹介します。  船の速力や航程(Distance)を測定する道具(計器)をログ(Log)あるいは測程儀と呼び、古くは船速測定法として木片(流木)を利用する流木測定法(ダッチマンズログ<Dutchman’s log>)が知られています。これは一定の距離の2つの印を船の舷側に付け、船上から木片を海上に投げて、それがこの印の間を通過する時間を測定して船の速力を知るものです。時間の測定には砂時計が ...続きを見る

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2007/01/04 08:39
海事関連「引き札」
海事関連「引き札」 今回は当海事博物館内の展示物中、やや特殊な「引き札」について簡単にご案内します。  引き札とは江戸時代中期以降から明治時代にかけて、商店などが例えば顧客への年末年始のあいさつ回りに配られたもので、宣伝を兼ねたサーヴィス品でした。今日のチラシや宣伝パンフレットにつながっていますが、江戸時代には山東京伝や為永春水などの人気のあった戯作者たちが[引き札]にも筆を取り、庶民の間でもてはやされたと言われています。  ところで、当博物館に展示している引き札は海事関係のものですが、図は明治中期の廻船問屋引 ...続きを見る

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2006/06/29 21:00
西洋型帆船(14)
西洋型帆船(14) ペリー来航後の幕府海軍創設の経緯について、先にその大要をご案内しました。これと併行して幕府は嘉永6年(1853)9月に寛永12年(1635)に制定された「大船建造禁止令」を解禁し、諸藩の洋式船建造への道を開きました。  このような背景に基づき、諸藩は洋式船建造を企図しましたが、例えば幕府に命ぜられた水戸藩において、古いオランダ造船技術書やその翻訳書に準拠して、安政3年(1856)に石川島(東京都)で、3本マスト・シップ型木造帆船[旭日丸](排水量約750トン)を完成させました。また、来日中のロ ...続きを見る

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2006/06/10 08:10
西洋型帆船(13)
西洋型帆船(13) 前回ご案内した幕府海軍創設に伴ってオランダに発注した咸臨丸(原名:ヤパン)及び朝陽丸(原名:エド)は、前者が1857年9月22日(安政4年8月5日)、後者は1858年6月13日(安政5年5月3日)にそれぞれ長崎港に入港しています。  この他に別途、1858年8月26日(安政5年7月18日)にイギリスのヴィクトリア女王から王室ヨット・エンペラーが将軍(家定)に寄贈され、これを幕府は蟠龍丸と命名しました。以上により幕府は安政年間に、先にオランダから供与された観光丸と咸臨丸、朝陽丸及び蟠龍丸の合計4 ...続きを見る

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2006/06/01 20:35
西洋型帆船(12)
西洋型帆船(12) アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーの日本への第2次来航艦隊は、サスケハナ、ポウハタン及びミシシッピからなる3隻の[蒸気艦]とサラトガ、マセドニアン、ヴァンダリア、サウサンプトン、レキシントン及びサプライの6隻の[帆装艦]との合計9隻によって編成されました。これらは1854年2月13日(嘉永7年1月16日)に浦賀水道を航行して江戸湾小柴沖(現在の横浜市金沢区沖)に投錨しました(ただし、帆装艦サプライは3月19日に遅れて到着)。その後日本側とペリーとの交渉場所が神奈川に決まり、種々の折衝を経て、同年 ...続きを見る

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2006/05/24 22:30
西洋型帆船(11)
西洋型帆船(11) 西洋型帆船に係る長い歴史の最後19世紀に出現した傑作帆船クリッパーは、前回ご案内したように主としてアメリカ及びイギリスの交易業者の下で、ティー・クリッパーやウール・クリッパーなどとして、様々な分野において華々しく活躍しました。また、19世紀は実用的な蒸気機関を推進装置とする汽船が登場し、次第に発展した時代でもありました。しかし、初期には蒸気機関が故障した場合には、船からの通信手段が皆無であったため、自力で港まで航行する必要があり、このためには帆走装置が不可欠でした。すなわち、当初は帆が主たる航行 ...続きを見る

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2006/05/18 20:21
西洋型帆船(10)
西洋型帆船(10) 19世紀前半に「クリッパー」と呼ばれる快速帆船が登場しました。このクリッパーが最初に建造されたのは1820年頃アメリカ・ボルチモアといわれており、後にニューイングランドやニューオーリンズなどの造船所で造られ、やがてこれらの地の造船業者は世界中に反響を巻き起こしました。爾来、クリッパーを中核としたアメリカ商船は大西洋を横断し、また、ケープ岬回りで太平洋に出てインド洋に至る間を航海し続けました。やや遅れてイギリスもクリッパーの造船に着手してアメリカに追従しましたが、以下ではクリッパーに係るあらましを ...続きを見る

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2006/05/13 08:46
西洋型帆船(9)
西洋型帆船(9) すでにご案内したように、15世紀後半から始まった大航海時代に、コロンブスやマゼランなどの探検航海を先駆けとして、1764年から1790年にかけて計10回におよぶ世界1周の科学的航海が行われ、貴重な成果が得られました。この中に1768年から1779年に亘ってのイギリス人ジェームス・クックによる、計3回の探検航海が含まれています。今回はいわゆるキャプテン・クックの第1回航海とクックの乗船についての大要をご紹介します。 ...続きを見る

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2006/05/07 09:51
西洋型帆船(8)
西洋型帆船(8) 先にご案内したように18世紀頃になると、ヨーロッパを中心に大型帆船が発達しましたが、それより以前から小型帆船も世界各地で個別に、あるいは相関しながら発達していました。当ブログではこのような発展過程の一端を、古代船の事例の一部を含めて、時代別に西洋型帆船の若干例を挙げながらご紹介してきました。しかしながら、西洋型帆船の種類は極めて多く、帆の種類や帆の張り方など多岐に亘っていますので、今回は帆船の種類を纏めて、その概要をご案内することにしました。 ...続きを見る

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2006/04/27 20:52
西洋型帆船(7)
西洋型帆船(7) 今回は少々話題を変えて、大航海時代における日本人とヨーロッパ人との関わりについて、その一端を述べてみることにします。  天文12年(1543)8月種子島へ1隻の中国船が嵐を避けて入港しましたが、この船にポルトガル人(いわゆる南蛮人)が3名乗船していました。これらの南蛮人から彼等の持っていた鉄砲2挺を種子島藩が買取りましたが、これがヨーロッパから日本への鉄砲伝来の年とされています(鉄砲は天正3年<1575>の長篠の戦で決定的な役割を果たした事が知られている)。  一方、スペイン人は既に植民地化 ...続きを見る

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2006/04/22 08:09
西洋型帆船(6)
西洋型帆船(6) 前回ご紹介したように17世紀から18世紀にかけては、ヨーロッパ諸国が植民地獲得競争に明け暮れ、かつ、宗主国と植民地間に就航する交易船(商船)の積荷を狙う海賊船が世界の各地で跳梁跋扈した時代でした。このため一般交易船であっても自衛上武装せざるを得ず、加えて軍船による海戦の際も、接舷して相手船に乗り移り切り込むという古典的方式から、敵船と適当な距離を保って、片舷の大砲で一斉射撃を加えて敵を殲滅する方式に変化しました。この戦法に沿って造られた船が「戦列艦」で、先に述べたガレオン船の欠点を改良して、軍船 ...続きを見る

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2006/04/16 09:38
西洋型帆船(5)
西洋型帆船(5) コロンブスの新大陸発見以降、スペインはカリブ海を中心とする中・南米地域に植民地を建設しました。また、ほぼ同時期にポルトガル、イギリス、フランスやオランダなどのヨーロッパ人も続々と南北アメリカ大陸、インド亜大陸及び東南アジア地域に進出し、それらの地で金銀財宝や香料その他の産物を入手し、ヨーロッパに多大の利益を齎しました。これらヨーロッパ諸国が、自国と植民地間の諸物資の輸送に利用した船は、その主体は前回ご案内したキャラック船でした。また、上記諸国において15世紀後半から16世紀中期にかけて、いわゆる ...続きを見る

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2006/04/12 20:45
西洋型帆船(4)
西洋型帆船(4) 15世紀の大航海時代における探検家として、周知のようにコロンブス、ヴァスコ・ダ・ガマやマゼラン等が有名です。これらの者のうちの1例として、コロンブスが探検航海に使用した船についてのあらましを以下でご案内します。 ...続きを見る

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2006/04/07 19:45
西洋型帆船(3)
西洋型帆船(3) マルコ・ポーロの『 東方見聞録 』が端緒になったか否かは定かでありませんが、中世のヨーロッパは東洋の富や香料に対する要望が極めて強くなった時代だったようです。  このような背景の下で、ポルトガルのエンリケ<ヘンリー>航海王子(1394〜1460)が主導して、航海術や造船技術あるいは新天地発見、地図作成等を行う総合機関を設置し、広く内外の優秀な人材を集めてそれらの研究に当たらせました。エンリケ航海王子の目的の1つは、アフリカ大陸西岸を南下して海路インドへ達する航路を発見することでした。しかし、同 ...続きを見る

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2006/04/01 11:33
海事博物館見学者(4)
平成17年度(2005)第4四半期の当博物館見学者数は以下の計242名でした。   1月:  34名   2月:  16名   3月: 192名 ...続きを見る

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2006/04/01 11:32
西洋型帆船(2)
西洋型帆船(2) 西洋型帆船はその発達史上、2つの系統に分けられます。その1つはヴァイキングの系統をひく北ヨーロッパで発達した船で、他はエジプト、フェニキア更には古代ギリシャやローマ時代から地中海を中心に伝わった船です。通常、北ヨーロッパ系の船は「北方船」、地中海系の船は「南方船」と呼ぶことが多いようですが、以下これらの船の概要を順次ご紹介します。 ...続きを見る

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2006/03/26 09:47
西洋型帆船(1)
西洋型帆船(1) エジプトで発見された、西紀前4000年あるいはそれ以前の古代エジプト時代のものとされる陶器に、帆と多数のパドル(支点のない櫂)をもつ船の絵が描かれています。これは太古からエジプト人は、船によりナイル河を往来し、水運に依存した種々の営みが行われていたことを示唆しています。また、地中海東端の現在のシリア、レバノン地方に存在した古代国家フェニキアは、西紀前13世紀から前8世紀にかけて繁栄した国家ですが、フェニキア人も櫂と帆をもつ軍船や商船を建造し、地中海、大西洋あるいは紅海からインド洋にかけて活躍した ...続きを見る

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2006/03/21 09:21
小廻船9(川御座船)
小廻船9(川御座船) 川御座船(かわござぶね)  先に当ブログ「戦国時代の軍船(2)」で、大名が海で使った海御座船(御召関船)をご紹介しました。これに対して川御座船はその名のとおり河川で使用する大名の御座船を指します。徳川幕府の確立以降、幕府の川御座船が最初に大坂に置かれましたが、その後参勤交替時に海御座船で、大坂まで海路を取る中国・四国・九州方面の諸大名が、淀川筋で使用する川御座船を大坂に配置するようになりました。また、幕府の川御座船は朝鮮使節や琉球使節の迎接用として、4艘が淀川流域で利用され、諸藩の川御座船共々 ...続きを見る

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2006/03/15 20:09
小廻船8(くらわんか船)
小廻船8(くらわんか船) くらわんか船(煎賣船)  これまでに度々ご案内した金澤兼光著『 和漢船用集(宝暦11年<1761>)』に[ 煎賣船(にうりぶね)]について次の記述があります。「所々にあり。小舟にして酒肴を煎賣するの舟也。あるひは餅くたものの類をひさく。摂州にて兵庫の磯、尼崎の川筋、往来の船につきて、旅客にすすむ。又川口入津の廻船掛り舟に煎賣する舟あり。淀川筋にて松か崎近辺にいたって、昼夜往来の30石舟に着けて、酒食をすすめ煎賣するの舟也。」のように書かれています。  右図は和漢船用集に描かれている煎賣船です ...続きを見る

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2006/03/11 09:18
小廻船7(三十石船)
小廻船7(三十石船) 三十石船  一般に海船・川船を問わず、米30石を積載できる船が30石船です。しかし、江戸時代には淀川を上下して旅客を輸送する30石積の乗合船を指すようになっていました。ただし、30石船の本来の呼称は、過書船(起源は豊臣秀吉が慶長3年<1598>に朱印状を与えた船を指す)の内の30石積川船のことでした。これが乗合船となると、特に人乗30石船と呼ばれ、長さ49尺(14.8m)・幅6.4尺(1.9m)・深さ1.8尺(50cm)ぐらいの船で、船型は「艜(ひらだ)」でした。  右図は安永 ...続きを見る

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2006/03/05 09:06
小廻船6(高瀬船)
小廻船6(高瀬船) 高瀬船  これは森鷗外の小説「高瀬舟」によって広く知られていますが、高瀬船は古くは例えば11世紀『 和泉式部日記 』中の和歌に詠まれていて、当時の公卿たちの川遊び船として使われていたと考えられます。この遊山船は先に当ブログ「平安・鎌倉時代の和船(1)」でご案内した「&#33372(ひらだ)」船だったと推定できます。  時代が下がって近世の高瀬船については、先にご紹介した金澤兼光著『 和漢船用集(宝暦11年、1761)』に畿内・中国筋などの諸地域で使われていた川船として、その名が ...続きを見る

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2006/03/01 20:18
小廻船5(金毘羅船)
小廻船5(金毘羅船) 金毘羅船  これは讃岐の「金刀比羅宮」参詣用の船を指し、大坂(道頓堀辺り)・丸亀間を往復したと思われます。ところが、民謡にも唄われた有名な船ですが、江戸時代の船の図面や絵図・模型などの技術史料(『 和漢船用集 』を含む)には、金毘羅船に関するものが殆ど無く、その実態は分かっていません。  しかし、金毘羅船は瀬戸内海をいわゆる地乗り航法(沿岸航法)で航行した筈ですから、川船ではなく海船仕様の船だったと考えられます。右図は文化3年(1806)に刊行された『 筑紫紀行 』中の挿絵で、金毘羅船の乗船 ...続きを見る

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2006/02/25 07:48
小廻船4(ダンベエ船)
小廻船4(ダンベエ船) ダンベエ船  先にご案内した金澤兼光著『 和漢船用集(宝暦11年、1761)』によると、団兵衛(ダンベエ)船とは摂州で利用された川船で、船体上面に板を並べて釘付けにした平らな甲板を設けて、その上に石を載せて運搬する石船と記されています。右図は和漢船用集に描かれているダンベエ船ですが、その名前の由来については分かっていません。  一方、関東地方ではダンベエという名の川船はなく、大坂近辺の石船と同様な船は修羅船と呼ばれていたので、江戸時代においてはダンベエ船の名はかなり限定された地域で使われてい ...続きを見る

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2006/02/19 09:02
小廻船3(イサバ船)
小廻船3(イサバ船) イサバ船  イサバという語については、江戸時代の儒学者・蘭学者の青木昆陽(1698〜1769)著の『 続昆陽漫録補 』に「大坂辺りにて魚をいろいろ商ふを五十集(いそば)と云ふなり。或云く、今はいさばと云ふ」と記されていて、江戸中期以降は魚商人を指していました。またこれとは別に、高崎藩の大石久敬が著わした『 地方凡例録 (寛政6年、1794) 』には、魚を五十集物(いさばもの)と称し、これを扱う者が五十集商人と書かれている処から、一般に魚商をイサバと呼んだと思われます。  これらを語源として[ ...続きを見る

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2006/02/16 07:45
小廻船2(猪牙船)
小廻船2(猪牙船) 猪牙船(ちょきぶね)  これは江戸市中の河川を中心に広く使用された、1人漕ぎまたは2人漕ぎの小船です。猪牙船に関する図面や模型などの資料がほとんど無いため、実態はよく分かっていないのですが、右画像の浮世絵に描かれた、弁才船の手前を漕行している船のようだったと思われます。江戸時代の明暦年間(1655〜58)に出現したといわれており、当時、長吉という名の押送船(おしおくりぶね、鮮魚運搬船)の船頭が考案したとされているので、[長吉船]とも呼ばれたようです。  猪牙船は図のように長い舳先(水押<みよ ...続きを見る

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2006/02/11 09:20
小廻船1(五大力船)
小廻船1(五大力船) 先に当ブログにおいてご紹介した、弁才型和船の菱垣廻船・樽廻船や北前船は、ほぼ江戸中期から明治後期にかけて日本海運の中核として活躍し、主として大坂・江戸間あるいは大坂・蝦夷地(北海道)間のような全国規模の長距離航路に就航して、種々の商品の輸送に当り近世の流通経済と海運事業の発展に大いに寄与しました。  一方、近世の廻船には以上の廻船とは異なり、比較的近距離の沿岸航路や河川で利用された多数の小廻船がありました。小廻船とは小回り、つまり近距離航路に就航する比較的小型廻船を指すことにしますが、今回から ...続きを見る

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2006/02/05 09:17
古代の船(5)
古代の船(5) 当ブログの「遣唐使船(6)」でご紹介しましたが、朝廷と唐との公的通交は、[国信]や[別貢]という外交儀礼に伴う交易品の贈答で行われました。一方、倭女王と魏との交易にあってもこれと同様、遡って3世紀の魏帝の詔書に、後述するように[国信]と[別貢物]の区分が明示されていて、外交上の慣例の類似性を知ることができます。  今回は倭女王と魏帝との信物(国信・別貢)の交換についての概要を述べ、本テーマ(古代の船)に係る投稿記事の最終回と致します。 ...続きを見る

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2006/02/01 20:43
古代の船(4)
古代の船(4) 昭和50年(1975)に日本と韓国とが協力して、古代船による「韓から倭」への実験航海が行われました。このとき利用された船は、先にご紹介した宮崎県西都原古墳出土の[船型埴輪]、あるいは他の古墳に係る[船壁画]などを参考にして設計された「古代推定船」です。右図が航海中の同船で、これは野性号と名付けられました。主要目は木造(カナダ松)、長さ16.5m、幅2.2m、3.9トン、乗員は30名で、漕手は水産大学校(山口県下関市)のカッター部員が担当しました。  この実験航海は先にご案内した『 魏志 』倭人 ...続きを見る

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2006/01/26 07:39
古代の船(3)
古代の船(3) 弥生時代から古墳時代にかけての大陸渡航用大型船は、前回ご案内した銅鐸の船のような準構造船と考えられ、船を進める推進具としては恐らくオール(舷側に支点を設けて漕ぐ櫂)を用いたと思われます。また、帆は無かった可能性が大ですが、有ったとしても2〜3世紀の帆は、若干の古墳壁画に描かれているような、帆柱を船の両舷側に1本ずつ立て、その上部に桁を渡して、その間に莚帆を張るという、完全固定式帆装だったと推定されます。この方式では追風しか利用できず、あくまで漕航の補助的手段に過ぎなかったと考えられます。つまり、 ...続きを見る

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2006/01/21 08:15
古代の船(2)
古代の船(2) 先に縄文時代と弥生時代に係る丸木船の概要をご紹介しましたが、特に弥生時代には大陸との交通があり、国内でもある程度の沿岸航海が行われていたと考えられます。しかし、前回も述べましたが、このような場合に利用された筈の大型船が発見されていません。ただし、弥生時代になると各地から出土した土器や銅鐸に船が描かれています。例えば弥生時代後期のものと推定される銅鐸の1つ(福井県春江町出土)に、船首尾がゴンドラ形の船が鋳出されていて、それに多数の漕手と櫂が表現されています。これにより同時代にはかなりの大型船が利用 ...続きを見る

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2006/01/15 10:17
古代の船(1)
古代の船(1) 船を利用して水上を航行する術は、往古より世界中の民族が持っていました。日本においても、一本の木を刳り抜いて造った「単材刳船」、すなわち、いわゆる[丸木船]が往昔から使われており、日本全国の太平洋岸や日本海岸などで、古くは「縄文時代」の遺跡中から、かなり大きな丸木船が発掘されています。  特に関東地方を主とする多数の出土例がありますが、なかでも千葉県加茂遺跡のものが最も古く、同時に出土した土器から比定して、縄文前期(5100±400年前)の船と考えられています。完形ではないので船型の特定は難しい ...続きを見る

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2006/01/09 09:21
海事博物館見学者(3)
平成17年度(2005)第3四半期の当博物館見学者数は次の通りでした。   10月: 424名   11月: 129名   12月:  86名 ...続きを見る

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2006/01/04 19:26
遣唐使船(6)
遣唐使船(6) 今回は遣唐使船に係る投稿記事の最終回として、遣唐使船は唐へ何を運んだのか、また、日本へ持帰った品物は何だったのかについて、その大要をご案内し結びと致します。 ...続きを見る

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2005/12/28 07:36
遣唐使船(5)
最初の遣唐使派遣に先立つこと20数年前、朝廷から607年(推古天皇15)に隋の国王に送った、有名な「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや。」の文言で始まる国書がありました。これは小野妹子らを使節とする遣隋使が差し出した国書で、隋との国交で対等関係を主張したものと考えられます。これを見た時の皇帝煬帝(ようだい)は激怒し、このような無礼なものは今後取り次ぐ必要が無いと命じたことが『 隋書 』に書かれています。  この理由は当時世界の統治者として、天帝から委任を受けたのは中国皇帝( ...続きを見る

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2005/12/23 09:04
遣唐使船(4)
遣唐使船(4) 前回もご案内しましたが、遣唐使船は遭難が続出しました。南路をとって以来、遣唐使が往復とも無事だったのは、計8回の内で元正朝の第8次(717年)の1回のみでした。遣唐使船の海難の原因については、造船技術の未熟と東シナ海における季節風の知識の欠如によるものと推定されます。ここで前回に引続き、南路で渡唐した遣唐使船を後期遣唐使船と呼ぶことにします。 ...続きを見る

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2005/12/19 19:37
遣唐使船(3)
遣唐使船(3) 海難が頻発した遣唐使の派遣を巡って問題になるのは、遣唐使船の構造や航海術がどうであったのかということです。今回は後期遣唐使船の船型構造の一端をご紹介します。先にご案内した主として「南路」で渡唐した遣唐使船を、前回と同様に後期遣唐使船と呼ぶことにしました。 ...続きを見る

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2005/12/15 07:31
遣唐使船(2)
遣唐使船(2) 遣唐使の歴史は遭難の歴史でもあります。第6次までの前期遣唐使船の場合は、前回ご案内しましたが地乗り航法を主用する右図(前回の画像を再掲)の「北路」に依ったので、海難は比較的少なかったと思われます。しかし、8世紀になってから対新羅関係が悪化して北路が使えなくなるという、厳しい現実が出来した事も一因となり、やむなく東シナ海横断の「南路」を利用せざるを得なくなりました。この航路は遭難船が続出する悲惨な結果を招来しました。 ...続きを見る

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2005/12/10 07:44
遣唐使船(1)
遣唐使船(1) 日本の歴史上の船で遣唐使船は、歴史教科書に必ず登場する非常に有名な船です。遣唐使派遣の目的は、当時東アジア第一の大国であった「唐」と友好関係を保ち、世界的に優れた唐文化の導入にあったと考えられます。  遣唐使の派遣は舒明2年(630)の第1次から承和5年(838)の第15次に至るまで、実に2世紀以上に及んでいます(飛鳥時代初期から奈良時代を経て平安時代初期まで)。したがって、それに利用した船や航海術には、かなりの変化があったと思われますが、具体的な技術資料が殆ど残されていないので、実態は全くと ...続きを見る

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2005/12/05 20:23
超伝導電磁推進船
超伝導電磁推進船 昔の船の話は一時中断し、今回は当海事博物館に展示中の、いわば「未来船」についての概要と、それに関連する事項についてご案内します。  右の画像は神戸商船大学(現神戸大学海事科学部)において、昭和63年(1988)7月に水槽実験走行に成功した標記に係る実験船です。超伝導とは、ある種の物質が極低温(−269℃)において、その電気抵抗がゼロになる現象です。船内に設けた適当な装置によりこの現象を利用して、船底付近から海水中に向けて強力な磁場(磁石)を作り、この磁場に直交するように電流を流すと力(電磁力) ...続きを見る

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2005/12/01 07:38
平安・鎌倉時代の和船(2)
平安・鎌倉時代の和船(2) 平安時代の貴族が淀川水系などの河川で利用した船、あるいは後の鎌倉時代における元寇の際に戦った日本の兵船の多くは、前回ご案内したように「&#33372(川船)」でした。また、源平合戦時代の兵船(軍船)も、先に述べた戦国時代の軍船とは異なり、平時は荘園年貢などの諸物資を輸送する、一般廻船(商船)の転用だったと考えられます。  一方、鎌倉時代には&#33372を改良し、大型海船として造られた準構造船が在りました。これは前回ご案内したように、元寇時に兵船の一部として参戦しましたが、元々は&#33372 ...続きを見る

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2005/11/27 09:31
平安・鎌倉時代の和船(1)
平安・鎌倉時代の和船(1) 平安・鎌倉時代に「二瓦(ふたつがわら)」と呼ばれた船がありました。例えば『 平家物語 』の中に、平安貴族が「二瓦」の船で淀川下りを行った、とする記述があります。この船の船体構造については諸説あり、判然としないところが多いのですが、平家物語以外にも当時の公卿が書いた、日記史料『 兵範記 』の保元2年(1157)2月12日条や保元3年10月17日条などに、当時の貴族階級の人々が、水手(かこ、船の漕ぎ手)10数名で航行する「二瓦」に乗船して淀川を上下したり、宇治川を渡ったことが記されています。これらの ...続きを見る

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2005/11/23 07:53
「朝顔丸」船首像
「朝顔丸」船首像 西欧では古くバイキング時代から、船の舳、舷側、船尾や舵柄等の船体各部に、彫刻などの装飾を行う風習がありました。17世紀から19世紀にかけて世界各地へ航行寄港した、スウェーデン、イギリスやアメリカなどの西洋型帆船においても、種々の船体装飾が施されていました。  今回ご紹介するのは、当海事博物館に公開展示されている、明治時代の日本商船[朝顔丸]に装飾されていた「船首像」です。  画像がその船首像ですが、朝顔丸は明治22年(1889)にイギリスで建造された蒸気船(2461トン)です。この頃は先に ...続きを見る

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2005/11/01 08:05
戦国時代の軍船(2)
戦国時代の軍船(2) 前回ご案内した安宅船は戦国水軍中の戦艦に位置づけられましたが、ここでご紹介する「関船」は、いわば巡洋艦に当たります。安宅船は大型かつ重装備であったため、航行速力がやや劣っていたのに対して、関船は快速船として水軍の重要な一翼を担いました。また、その他の軍船として関船以上に軽快で小回りの効く、駆逐艦に相当する「小早」がありました。 ...続きを見る

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2005/10/27 08:09
戦国時代の軍船(1)
戦国時代の軍船(1) わが国において源平が対立していた時期、あるいはその後の鎌倉時代にも軍船(水軍)が存在し、ご承知の通り海戦が行われていました。しかし、当時の軍船は水軍専用に造られた船ではなく、平時は諸物資を輸送する荷船(商船)や場合によっては漁船を一時的に徴用改造し、軍船に転用する方法が行われていました。時代が下がって南北朝の動乱期、続いて室町時代の諸戦役を経て、戦国時代(応仁の乱<1467>から安土桃山時代<1575〜94>の中期頃まで)になると、海戦専用の軍船が建造されるようになりました。  この軍船には ...続きを見る

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2005/10/20 08:11
朱印船(3)
今回は朱印船についての最終回として、朱印船の乗員、航海術や交易品などに係る大要をご紹介します。 ...続きを見る

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2005/10/15 08:20
朱印船(2)
朱印船(2) 先に朱印船制度と朱印船渡航地とについてご紹介したので、今回は朱印船の船型構造の一端をご案内します。 ...続きを見る

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2005/10/09 09:05
海事博物館見学者(2)
当博物館の平成17年度(2005)第2四半期の見学者数は以下の通りでした。    7月:  456名    8月:   76名    9月:  178名 ...続きを見る

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2005/10/05 19:38
朱印船(1)
朱印船(1) わが国は国土が狭小な島国で、国内生活資源が必ずしも豊かでないため、往昔より諸資源を国外に求めて、海上交通による貿易や小規模ではあるものの、海外渡航移住が行われていました。このような背景の下で安土桃山時代になると、日本人は朝鮮、琉球、南支那(中国南部)の沿岸各地へ進出し始め、江戸時代初期以降は南洋方面の諸地域を含めて、所謂「朱印船」が渡航するようになりました。朱印船が就航するようになったのは、それまで朝鮮、南支那沿岸から東シナ海にかけて跳梁跋扈し、大いに恐れられた日本の海賊船と、正規の許可を得た ...続きを見る

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2005/10/01 20:23
丸子船(琵琶湖就航和船)
丸子船(琵琶湖就航和船) 前回ご案内した近江商人集団に係る松前交易商品は、北国海運により敦賀・小浜まで運ばれ、ここから陸路によって琵琶湖岸の塩津・海津・今津などへ輸送され、これらの諸港から湖上水運を利用して、大津・京・大坂へ運送しました。また、江戸時代初期に北国地方幕藩領主の上方方面への蔵米廻送などにも、この輸送路が利用されました。このルートにおいて、琵琶湖水運を担当したのが「丸子船」です。  丸子船の構造は史料不足のため審らかでありませんが、代表的和船の弁才船構造とは異なり、先に当ブログの「近世の廻船とその航路(T ...続きを見る

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2005/09/24 07:40
近江商人と松前交易
近世初期に蝦夷地(北海道)に進出し、松前と上方間の交易に携わった、「近江商人」の日本海海運事業の概要をご案内します。 ...続きを見る

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2005/09/16 19:34
海事博物館記念講演会
当博物館は神戸大学付属「海事博物館」と名称変更後、来る10月で1周年を迎えます。これを記念して、本年10月1日、同8日及び15日の各土曜日午後(13:30〜 )、1周年記念講演会が開催されます。詳細は 「こちら」 をご覧下さい。 ...続きを見る

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2005/09/13 09:40
和船に係る慣用語8
つかす・たらす  これは悪天候における和船のいわば緊急航走法に関する用語です。菱垣廻船や北前船などが航海中、風が強く波も高くなり過ぎると、船は波間に揺り立てられ航行が不安定になります。このような場合は適当に帆を下ろす(つかす)必要があり、これによる航走法を「つかせ走り」と呼びました。  帆を下げてつかせ走りをしていても、なお走り過ぎる場合には、適当な綱を長く海上にたらす事により船足を押さえる手段が講じられ、これが「たらし引せ」です。また、たらし引せの効果を高めるため、綱の先に碇を結びつけるこ ...続きを見る

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2005/09/10 07:40
和船に係る慣用語7
黒瀬川  黒瀬川といっても川ではなく、日本列島の太平洋側近海を流れる黒潮のことです。黒潮は日本海流とも呼ばれ、台湾の南東方向から東シナ海を北上して、沖縄列島の西側を通り屋久島、奄美大島海域をを経て太平洋に入ります。更に日本の南岸に沿って流れ潮岬沖から遠州灘に入り、伊豆七島間を通って房総沖より沿岸を離れて太平洋中央部に向います。黒潮は速いところの流速が毎秒2m以上、幅は100kmに及ぶことが知られており、透明度の高い紺青の色が黒く映えて見えるので、黒潮と名付けられました。  画像は伊豆七島か ...続きを見る

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2005/09/04 09:09
和船に係る慣用語6
潮時  月と太陽が地球に何らかの引力を働きかけている事は古くから知られていますが、海洋の潮汐現象もこれらの引力が関与していると考えられています。  海面の潮汐の干満・方向・速度・時刻などは操船方法に非常に影響するため、これらを熟知する事は菱垣廻船などの水主(乗組員)にとって、極めて重要な事項だったと考えられます。  「日本船路細見記」に「諸国浦々潮時計」の項があり、毎日の潮の指引(指潮・引汐)や高下が記して有ります。また、これとは別に同細見記の「東海船路道中記」や「船路名所記」等の項に「し ...続きを見る

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2005/09/01 07:35
和船に係る慣用語5
澪標(みをつくし)  これは菱垣廻船などが入出港する際、その航行を安全ならしめるための航路標識です。澪標は澪の串を意味し、澪は水脈で海川中で水が深く船が通行できる筋で、標は串あるいは杭のことです。古くは例えば平安時代の「延喜式」巻十(延長5年、927完成)に、難波の澪標が重要な施設としてその名が記されています。また、「源氏物語」に第十四帖『澪標』があり、難波の澪標が和歌で身を尽くしの掛詞として使われています。  その後時代を経て江戸時代になると、澪標という語は歌を除けば殆ど使用されなくなり ...続きを見る

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2005/08/25 08:02
和船に係る慣用語4
日和見(ひよりみ)  日和は晴れた空合、すなわち晴天を意味します。菱垣廻船や北前船などの船頭は出帆に当り、「日本船路細見記」等の航路誌を参照しながら、海風や波などの気象状況を勘案し、日和を見定めて出帆したと考えられます。このため船頭の他にも諸港に、雲行きなどをよく観察し天候を予知する実地経験が豊富な者が存在しており、これを「日和見」と称しました。  この日和を見定める事は極めて重要で、例えば城米(幕府直轄領の年貢米)や蔵米(諸藩の年貢米)を輸送する廻米積船を、誤って難破させ大量の年貢米を流 ...続きを見る

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2005/08/19 08:07
和船に係る慣用語3
まとも・ひらき・まぎる  今回ご案内するのは、弁才船(菱垣廻船など)の帆走方法に関する用語です。「日本船路細見記」の「取柁面楫之事(船の内)」に、『 帆をあげて追風にてはしるをまともといひ、横風にてはしるをひらきといふ。向ふ風にひらきて行くをまぎるといふ也。(後略) 』とあります。  真船尾から帆に追風を受けて走る状態が「まとも(真艫)走り」で、追風・順風航走を意味します。正面・真正面・真面目などはこのまともから転じた語だと考えられます。  次に横風を舷側に受けて走る事を「開き走り」とい ...続きを見る

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2005/08/11 08:06
和船に係る慣用語2
おもかじ・とりかじ  先にご案内した「日本船路細見記」の「取柁面楫之事」項目中、画像に示した図が挿入してあり、それには次のように記して有ります。  図の右上に『とりかじおもかじハ船を自在にする指揮の言葉也。故に自分のりたる船を左へやるをとりかじといひ、右へやるをおもかじといふ。但かじ柄と舟のミよしハあちこちになるの里なり』とあり、左上に『こちらへゆくを左柁(おもかじ)、また卯面(うむ)かぢといふ。直にはしるをようそろといふなり』と記されています。また、左下に『こちらへゆくを右舵(とりかじ) ...続きを見る

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2005/08/06 08:54
和船に係る慣用語1
今回から少々趣を変え、和船(近世廻船が主たる対象)に関する海上活動、生活や仕来り等の慣習から生じた、慣用語あるいは俚諺について記してみる事に致します。現在でも時に耳にする言葉があるかと思いますが、暫くの間宜しくお付合い下さい。 ...続きを見る

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2005/08/01 19:33
和船(近世廻船)の航海術U
近世前期においては、磁石が普及していなかったため(室町時代の遣明船で既に使用されてはいた)、一般廻船(菱垣廻船や北前船など)は前回ご紹介した地乗り航法で航行したので、通常多大の航海日数を要しました。しかしながら、近世中期以降になると積荷商品の増大並びに流通の拡大により、航行日数の短縮化を図る事が急務となりました。 ...続きを見る

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2005/07/28 19:35
和船(近世廻船)の航海術T
わが国の鎖国以前、例えば朱印船のような外航貿易船は、西洋から導入された天文航海術を用いて航行していました。しかし、寛永13年(1636)の幕府による海外渡航禁止令以降の鎖国下においては、当然、わが国一般廻船の航行区域は日本周辺海域のみに限定されました。その結果、近世廻船(菱垣廻船や北前船など)の運航は単純で素朴な航海技術のみで行われるところとなりました。当時の航法は「地乗り」と「沖乗り」と呼ばれる方法に大別されますが、今回は地乗りの概要をご紹介します。 ...続きを見る

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2005/07/22 20:36
和船(近世廻船)の航海書
菱垣廻船・樽廻船あるいは北前船などの近世廻船の運航用手引書として、種々の海路図や航路誌が出版されていました。海路図として古くは各航路別に水主が経験に基づいて作ったものを利用していたようですが、単純なもので実用的価値はあまり無かったと考えられています。しかし、幕末期になるとそれまでのものを集大成した「大日本海路図」が天保13年(1842)に出版されました。これは日本海域全航路を纏めた海路図として廻船乗組員に広く利用され、その後明治元年(1868)に銅板出版された、海路図と航路誌とを組合わせた「大 ...続きを見る

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2005/07/16 09:39
和船(近世廻船)の海難事故
弁才船(大和型荷船)の船体構造上の弱点や航海技術の未熟さなどにより、江戸時代に廻船の海上難船事故が頻発しました。今回はその事例の一端をご紹介します。  事故の発生は7〜9月(概ね現代の8〜10月)が殆どで、これは台風の影響が大であったと考えられますが、それにしても現在では信じ難いほど多数の海難が生じたようです。以下で代表的弁才型船の菱垣廻船・樽廻船及び北前船について簡単にご案内します。 ...続きを見る

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2005/07/09 09:03
高田屋嘉兵衛と北前船
高田屋嘉兵衛(1769−1827)は出生地の淡路島で、12歳頃から親戚方で漁業に従事しながら、別の親戚方で商売の手伝いもしていましたが、寛政2年(1790)22歳で兵庫へ出て、樽廻船問屋堺屋喜兵衛の下で水主になりました。その後、生まれつきの才能と勤勉により、4年後には早くも沖船頭を務めるまでになりました。当時の兵庫は北前船の西廻り航路の中心港として活況を呈していたので、嘉兵衛も北前船に魅せられてそれへの転身を図り、寛政7年(1795)春に兵庫の和泉屋伊兵衛所有の北前船沖船頭として、初めて西廻り航 ...続きを見る

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2005/07/03 09:35
高田屋嘉兵衛記念館・資料館
兵庫県淡路島出身の高田屋嘉兵衛(1769〜1827)は、江戸時代後期に北前船の一大船主・廻船業者として、兵庫〜蝦夷地間の交易に華々しい活躍をしましたが、同時に日・露間の北方領土を巡る衝突や紛争の解決に尽力し、一民間人としてロシアを相手にほぼ独力で和解を成し遂げました。その功績は今日まで極めて高く評価されている所です。  嘉兵衛の生い立ちや数々の業績などについては別稿に譲り、以下では淡路島に設けられている、嘉兵衛ゆかりの記念館・資料館についての概要をご案内します。 ...続きを見る

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2005/07/03 09:34
海事博物館見学者
今回は当海事博物館の平成17年度(2005)第一四半期の見学者数についてご案内します。    4月:  35名    5月: 454名    6月:  52名 以上の合計541名です。5月が突出して多くなっていますが、これは5月28〜29日の2日間に亘って開催された、神戸大学海事科学部学生主催による「深江祭」が関係していると考えられます。深江祭期間中はキャンパスを開放し、当海事博物館、学内種々の実験室・研究室や付属練習船「深江丸」の一般公開等が行われました。 特に5月に外国よりの訪問 ...続きを見る

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2005/07/01 07:38
日本船名の丸号の話
日本船の多くに「丸号」が付いています。これまでにご紹介した菱垣廻船・樽廻船や北前船などの廻船のほぼ全てに、例えば八幡丸、金比羅丸等々の丸号が付けられていました。また、現代の日本商船の船名も同様でしたので、かつて一部の外国から日本外航商船が”MARU SHIP”と呼ばれた事がありました。しかし、戦前の海軍や戦後の海上自衛隊の艦船あるいは海上保安庁の巡視船艇には、一般に丸号が付いていないので、日本船舶の全てに当てはまる訳では有りません。  これまで先学諸氏により、船に丸号が付された時期やその由来に ...続きを見る

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2005/06/24 19:35
神戸市立博物館
今回ご案内するのは「神戸市立博物館」です。これは先にご紹介した神戸海洋博物館とは全く別の施設で、昭和57年(1982)旧外国人居留地内に開館されました(昭和10年建築の旧横浜正金銀行神戸支店を増改築した、洋式古典建築の重厚な建物)。  一般に年間数回の特別展が開催されますが、これ以外の展示物は合計6室ある常設展示室において、6つのテーマで日本と外国との文化交流の様子を、神戸に焦点を当てながら公開されています。  一部に海洋・海事とは無関係なものもありますが、大半は海事に関係の深いテーマの展 ...続きを見る

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2005/06/18 09:16
近世の廻船とその航路(W)
これまで3回に亘ってご案内した廻船の航路以外に、日本海北部の奥羽地方などの幕府直轄領の城米や幕藩領主の蔵米を、津軽海峡から太平洋を経由して、東廻りに江戸まで輸送する航路が拓かれていました。これは慶長・元和期(17世紀初頭)に仙台藩、また、津軽藩が寛永2年(1625)、更に明暦元年(1655)に秋田藩がそれぞれ蔵米輸送のため東廻り廻船を江戸に差し向けました。しかし、この航路は房総沖などの荒波による海難事故が多発したため、常陸の那珂湊までを海路とし、後は川舟に積み替えました。このため多大の労力や日 ...続きを見る

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2005/06/13 07:34
近世の廻船とその航路(T)
近世初期から中期にかけて、主に日本海海域北部において活躍した廻船に、既に簡単にご紹介した北国船(ほっこくぶね)や羽賀瀬船(はがせぶね)がありました。これらは当時、日本海海運の主役を演じた廻船であったことは間違いないようですが、両者共に現存している関係資料が少なく、詳細についての実態が良く分かっていません。 ...続きを見る

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2005/06/04 10:02
「山田早苗コレクション」(日本商船行動記録)
兵庫県芦屋市在住の広島大学名誉教授(歯学博士・歯科医師)の山田早苗氏が、長年に亘って趣味として収集された膨大な船舶関連資料を、2004年10月に当海事博物館にご寄贈いただきました。これは「山田早苗コレクション」と名付けられていますが、第2次世界大戦前・戦中の日本商船約4600隻に関する、詳細な[日本商船行動記録]と102隻の1/600船舶精密模型などから構成された資料です。更にこれは「戦前・戦中の日本商船に係る情報で、山田早苗コレクションに無ければ、世界中何処にも存在しない」と言われるほどの大 ...続きを見る

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2005/06/02 19:43
和船(北前船を中心に)の船型
先にご紹介しましたように、北前船や菱垣廻船あるいは樽廻船の一般的、かつ、代表的船型は「弁才船」です。しかし、和船の船型はこの弁才船のみでなく、就中、いわゆる北前船より前の船型として北国(ほっこく)船や羽賀瀬(はがせ)船などが航行していました。これらは近世初期に日本海沿岸北部に就航(主に越前・越後)したローカル船です。 ...続きを見る

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2005/05/06 20:22
神戸海洋博物館
今回は当海事博物館に関する記述は小休止し、2005年4月21日にリニューアル・オープンした、「神戸海洋博物館」についてご紹介したいと存じます。私ことhokuraは、同博物館が開館(昭和62年)後間なしの、十数年以前にここを見学したことがありますが、この度久し振りに再訪問しました。当時の記憶は少々薄れているのですが、展示室レイアウトや展示内容がかなり変更されたように感じました。展示室は1、2階に別れ、夫々のテーマは   1階展示室: 「現代から未来の神戸港」   2階展示室: 「歴史から見た神 ...続きを見る

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2005/04/24 19:42
船絵馬
往昔、われわれの祖先は、馬を神の乗物と考え、生きた馬を神社に献上しました。しかし、生馬を供する事が出来ない人々は、代わりに適当な木板に馬の絵を描いて、後には神社だけでなく、寺院にもそれを奉納するようになりました。 近世には社寺に絵馬堂が設けられるようになり、絵馬の他に一般書画や詩歌なども奉納の対象になりました。更に例えば、京都清水寺に末吉船(朱印船)図の大絵馬が、江戸時代初期の寛永9年(1632年)に奉納されています。 以上のように、社寺に奉納される絵馬に、馬以外の絵も描かれるようになった ...続きを見る

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2005/04/15 20:19

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