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| タイトル | 日 時 |
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船の速力と航程測定法
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2007/01/04 08:39 |
海事関連「引き札」
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2006/06/29 21:00 |
西洋型帆船(14)
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2006/06/10 08:10 |
西洋型帆船(13)
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2006/06/01 20:35 |
西洋型帆船(12)
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2006/05/24 22:30 |
西洋型帆船(11)
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2006/05/18 20:21 |
西洋型帆船(10)
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2006/05/13 08:46 |
西洋型帆船(9)
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2006/05/07 09:51 |
西洋型帆船(8)
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2006/04/27 20:52 |
西洋型帆船(7)
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2006/04/22 08:09 |
西洋型帆船(6)
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2006/04/16 09:38 |
西洋型帆船(5)
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2006/04/12 20:45 |
西洋型帆船(4)
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2006/04/07 19:45 |
西洋型帆船(3)
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2006/04/01 11:33 |
海事博物館見学者(4)
平成17年度(2005)第4四半期の当博物館見学者数は以下の計242名でした。 1月: 34名 2月: 16名 3月: 192名 ...続きを見る |
2006/04/01 11:32 |
西洋型帆船(2)
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2006/03/26 09:47 |
西洋型帆船(1)
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2006/03/21 09:21 |
小廻船9(川御座船)
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2006/03/15 20:09 |
小廻船8(くらわんか船)
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2006/03/11 09:18 |
小廻船7(三十石船)
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2006/03/05 09:06 |
小廻船6(高瀬船)
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2006/03/01 20:18 |
小廻船5(金毘羅船)
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2006/02/25 07:48 |
小廻船4(ダンベエ船)
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2006/02/19 09:02 |
小廻船3(イサバ船)
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2006/02/16 07:45 |
小廻船2(猪牙船)
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2006/02/11 09:20 |
小廻船1(五大力船)
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2006/02/05 09:17 |
古代の船(5)
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2006/02/01 20:43 |
古代の船(4)
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2006/01/26 07:39 |
古代の船(3)
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2006/01/21 08:15 |
古代の船(2)
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2006/01/15 10:17 |
古代の船(1)
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2006/01/09 09:21 |
海事博物館見学者(3)
平成17年度(2005)第3四半期の当博物館見学者数は次の通りでした。 10月: 424名 11月: 129名 12月: 86名 ...続きを見る |
2006/01/04 19:26 |
遣唐使船(6)
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2005/12/28 07:36 |
遣唐使船(5)
最初の遣唐使派遣に先立つこと20数年前、朝廷から607年(推古天皇15)に隋の国王に送った、有名な「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや。」の文言で始まる国書がありました。これは小野妹子らを使節とする遣隋使が差し出した国書で、隋との国交で対等関係を主張したものと考えられます。これを見た時の皇帝煬帝(ようだい)は激怒し、このような無礼なものは今後取り次ぐ必要が無いと命じたことが『 隋書 』に書かれています。 この理由は当時世界の統治者として、天帝から委任を受けたのは中国皇帝( ...続きを見る |
2005/12/23 09:04 |
遣唐使船(4)
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2005/12/19 19:37 |
遣唐使船(3)
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2005/12/15 07:31 |
遣唐使船(2)
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2005/12/10 07:44 |
遣唐使船(1)
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2005/12/05 20:23 |
超伝導電磁推進船
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2005/12/01 07:38 |
平安・鎌倉時代の和船(2)
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2005/11/27 09:31 |
平安・鎌倉時代の和船(1)
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2005/11/23 07:53 |
「朝顔丸」船首像
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2005/11/01 08:05 |
戦国時代の軍船(2)
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2005/10/27 08:09 |
戦国時代の軍船(1)
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2005/10/20 08:11 |
朱印船(3)
今回は朱印船についての最終回として、朱印船の乗員、航海術や交易品などに係る大要をご紹介します。 ...続きを見る |
2005/10/15 08:20 |
朱印船(2)
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2005/10/09 09:05 |
海事博物館見学者(2)
当博物館の平成17年度(2005)第2四半期の見学者数は以下の通りでした。 7月: 456名 8月: 76名 9月: 178名 ...続きを見る |
2005/10/05 19:38 |
朱印船(1)
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2005/10/01 20:23 |
丸子船(琵琶湖就航和船)
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2005/09/24 07:40 |
近江商人と松前交易
近世初期に蝦夷地(北海道)に進出し、松前と上方間の交易に携わった、「近江商人」の日本海海運事業の概要をご案内します。 ...続きを見る |
2005/09/16 19:34 |
海事博物館記念講演会
当博物館は神戸大学付属「海事博物館」と名称変更後、来る10月で1周年を迎えます。これを記念して、本年10月1日、同8日及び15日の各土曜日午後(13:30〜 )、1周年記念講演会が開催されます。詳細は 「こちら」 をご覧下さい。 ...続きを見る |
2005/09/13 09:40 |
和船に係る慣用語8
つかす・たらす これは悪天候における和船のいわば緊急航走法に関する用語です。菱垣廻船や北前船などが航海中、風が強く波も高くなり過ぎると、船は波間に揺り立てられ航行が不安定になります。このような場合は適当に帆を下ろす(つかす)必要があり、これによる航走法を「つかせ走り」と呼びました。 帆を下げてつかせ走りをしていても、なお走り過ぎる場合には、適当な綱を長く海上にたらす事により船足を押さえる手段が講じられ、これが「たらし引せ」です。また、たらし引せの効果を高めるため、綱の先に碇を結びつけるこ ...続きを見る |
2005/09/10 07:40 |
和船に係る慣用語7
黒瀬川 黒瀬川といっても川ではなく、日本列島の太平洋側近海を流れる黒潮のことです。黒潮は日本海流とも呼ばれ、台湾の南東方向から東シナ海を北上して、沖縄列島の西側を通り屋久島、奄美大島海域をを経て太平洋に入ります。更に日本の南岸に沿って流れ潮岬沖から遠州灘に入り、伊豆七島間を通って房総沖より沿岸を離れて太平洋中央部に向います。黒潮は速いところの流速が毎秒2m以上、幅は100kmに及ぶことが知られており、透明度の高い紺青の色が黒く映えて見えるので、黒潮と名付けられました。 画像は伊豆七島か ...続きを見る |
2005/09/04 09:09 |
和船に係る慣用語6
潮時 月と太陽が地球に何らかの引力を働きかけている事は古くから知られていますが、海洋の潮汐現象もこれらの引力が関与していると考えられています。 海面の潮汐の干満・方向・速度・時刻などは操船方法に非常に影響するため、これらを熟知する事は菱垣廻船などの水主(乗組員)にとって、極めて重要な事項だったと考えられます。 「日本船路細見記」に「諸国浦々潮時計」の項があり、毎日の潮の指引(指潮・引汐)や高下が記して有ります。また、これとは別に同細見記の「東海船路道中記」や「船路名所記」等の項に「し ...続きを見る |
2005/09/01 07:35 |
和船に係る慣用語5
澪標(みをつくし) これは菱垣廻船などが入出港する際、その航行を安全ならしめるための航路標識です。澪標は澪の串を意味し、澪は水脈で海川中で水が深く船が通行できる筋で、標は串あるいは杭のことです。古くは例えば平安時代の「延喜式」巻十(延長5年、927完成)に、難波の澪標が重要な施設としてその名が記されています。また、「源氏物語」に第十四帖『澪標』があり、難波の澪標が和歌で身を尽くしの掛詞として使われています。 その後時代を経て江戸時代になると、澪標という語は歌を除けば殆ど使用されなくなり ...続きを見る |
2005/08/25 08:02 |
和船に係る慣用語4
日和見(ひよりみ) 日和は晴れた空合、すなわち晴天を意味します。菱垣廻船や北前船などの船頭は出帆に当り、「日本船路細見記」等の航路誌を参照しながら、海風や波などの気象状況を勘案し、日和を見定めて出帆したと考えられます。このため船頭の他にも諸港に、雲行きなどをよく観察し天候を予知する実地経験が豊富な者が存在しており、これを「日和見」と称しました。 この日和を見定める事は極めて重要で、例えば城米(幕府直轄領の年貢米)や蔵米(諸藩の年貢米)を輸送する廻米積船を、誤って難破させ大量の年貢米を流 ...続きを見る |
2005/08/19 08:07 |
和船に係る慣用語3
まとも・ひらき・まぎる 今回ご案内するのは、弁才船(菱垣廻船など)の帆走方法に関する用語です。「日本船路細見記」の「取柁面楫之事(船の内)」に、『 帆をあげて追風にてはしるをまともといひ、横風にてはしるをひらきといふ。向ふ風にひらきて行くをまぎるといふ也。(後略) 』とあります。 真船尾から帆に追風を受けて走る状態が「まとも(真艫)走り」で、追風・順風航走を意味します。正面・真正面・真面目などはこのまともから転じた語だと考えられます。 次に横風を舷側に受けて走る事を「開き走り」とい ...続きを見る |
2005/08/11 08:06 |
和船に係る慣用語2
おもかじ・とりかじ 先にご案内した「日本船路細見記」の「取柁面楫之事」項目中、画像に示した図が挿入してあり、それには次のように記して有ります。 図の右上に『とりかじおもかじハ船を自在にする指揮の言葉也。故に自分のりたる船を左へやるをとりかじといひ、右へやるをおもかじといふ。但かじ柄と舟のミよしハあちこちになるの里なり』とあり、左上に『こちらへゆくを左柁(おもかじ)、また卯面(うむ)かぢといふ。直にはしるをようそろといふなり』と記されています。また、左下に『こちらへゆくを右舵(とりかじ) ...続きを見る |
2005/08/06 08:54 |
和船に係る慣用語1
今回から少々趣を変え、和船(近世廻船が主たる対象)に関する海上活動、生活や仕来り等の慣習から生じた、慣用語あるいは俚諺について記してみる事に致します。現在でも時に耳にする言葉があるかと思いますが、暫くの間宜しくお付合い下さい。 ...続きを見る |
2005/08/01 19:33 |
和船(近世廻船)の航海術U
近世前期においては、磁石が普及していなかったため(室町時代の遣明船で既に使用されてはいた)、一般廻船(菱垣廻船や北前船など)は前回ご紹介した地乗り航法で航行したので、通常多大の航海日数を要しました。しかしながら、近世中期以降になると積荷商品の増大並びに流通の拡大により、航行日数の短縮化を図る事が急務となりました。 ...続きを見る |
2005/07/28 19:35 |
和船(近世廻船)の航海術T
わが国の鎖国以前、例えば朱印船のような外航貿易船は、西洋から導入された天文航海術を用いて航行していました。しかし、寛永13年(1636)の幕府による海外渡航禁止令以降の鎖国下においては、当然、わが国一般廻船の航行区域は日本周辺海域のみに限定されました。その結果、近世廻船(菱垣廻船や北前船など)の運航は単純で素朴な航海技術のみで行われるところとなりました。当時の航法は「地乗り」と「沖乗り」と呼ばれる方法に大別されますが、今回は地乗りの概要をご紹介します。 ...続きを見る |
2005/07/22 20:36 |
和船(近世廻船)の航海書
菱垣廻船・樽廻船あるいは北前船などの近世廻船の運航用手引書として、種々の海路図や航路誌が出版されていました。海路図として古くは各航路別に水主が経験に基づいて作ったものを利用していたようですが、単純なもので実用的価値はあまり無かったと考えられています。しかし、幕末期になるとそれまでのものを集大成した「大日本海路図」が天保13年(1842)に出版されました。これは日本海域全航路を纏めた海路図として廻船乗組員に広く利用され、その後明治元年(1868)に銅板出版された、海路図と航路誌とを組合わせた「大 ...続きを見る |
2005/07/16 09:39 |
和船(近世廻船)の海難事故
弁才船(大和型荷船)の船体構造上の弱点や航海技術の未熟さなどにより、江戸時代に廻船の海上難船事故が頻発しました。今回はその事例の一端をご紹介します。 事故の発生は7〜9月(概ね現代の8〜10月)が殆どで、これは台風の影響が大であったと考えられますが、それにしても現在では信じ難いほど多数の海難が生じたようです。以下で代表的弁才型船の菱垣廻船・樽廻船及び北前船について簡単にご案内します。 ...続きを見る |
2005/07/09 09:03 |
高田屋嘉兵衛と北前船
高田屋嘉兵衛(1769−1827)は出生地の淡路島で、12歳頃から親戚方で漁業に従事しながら、別の親戚方で商売の手伝いもしていましたが、寛政2年(1790)22歳で兵庫へ出て、樽廻船問屋堺屋喜兵衛の下で水主になりました。その後、生まれつきの才能と勤勉により、4年後には早くも沖船頭を務めるまでになりました。当時の兵庫は北前船の西廻り航路の中心港として活況を呈していたので、嘉兵衛も北前船に魅せられてそれへの転身を図り、寛政7年(1795)春に兵庫の和泉屋伊兵衛所有の北前船沖船頭として、初めて西廻り航 ...続きを見る |
2005/07/03 09:35 |
高田屋嘉兵衛記念館・資料館
兵庫県淡路島出身の高田屋嘉兵衛(1769〜1827)は、江戸時代後期に北前船の一大船主・廻船業者として、兵庫〜蝦夷地間の交易に華々しい活躍をしましたが、同時に日・露間の北方領土を巡る衝突や紛争の解決に尽力し、一民間人としてロシアを相手にほぼ独力で和解を成し遂げました。その功績は今日まで極めて高く評価されている所です。 嘉兵衛の生い立ちや数々の業績などについては別稿に譲り、以下では淡路島に設けられている、嘉兵衛ゆかりの記念館・資料館についての概要をご案内します。 ...続きを見る |
2005/07/03 09:34 |
海事博物館見学者
今回は当海事博物館の平成17年度(2005)第一四半期の見学者数についてご案内します。 4月: 35名 5月: 454名 6月: 52名 以上の合計541名です。5月が突出して多くなっていますが、これは5月28〜29日の2日間に亘って開催された、神戸大学海事科学部学生主催による「深江祭」が関係していると考えられます。深江祭期間中はキャンパスを開放し、当海事博物館、学内種々の実験室・研究室や付属練習船「深江丸」の一般公開等が行われました。 特に5月に外国よりの訪問 ...続きを見る |
2005/07/01 07:38 |
日本船名の丸号の話
日本船の多くに「丸号」が付いています。これまでにご紹介した菱垣廻船・樽廻船や北前船などの廻船のほぼ全てに、例えば八幡丸、金比羅丸等々の丸号が付けられていました。また、現代の日本商船の船名も同様でしたので、かつて一部の外国から日本外航商船が”MARU SHIP”と呼ばれた事がありました。しかし、戦前の海軍や戦後の海上自衛隊の艦船あるいは海上保安庁の巡視船艇には、一般に丸号が付いていないので、日本船舶の全てに当てはまる訳では有りません。 これまで先学諸氏により、船に丸号が付された時期やその由来に ...続きを見る |
2005/06/24 19:35 |
神戸市立博物館
今回ご案内するのは「神戸市立博物館」です。これは先にご紹介した神戸海洋博物館とは全く別の施設で、昭和57年(1982)旧外国人居留地内に開館されました(昭和10年建築の旧横浜正金銀行神戸支店を増改築した、洋式古典建築の重厚な建物)。 一般に年間数回の特別展が開催されますが、これ以外の展示物は合計6室ある常設展示室において、6つのテーマで日本と外国との文化交流の様子を、神戸に焦点を当てながら公開されています。 一部に海洋・海事とは無関係なものもありますが、大半は海事に関係の深いテーマの展 ...続きを見る |
2005/06/18 09:16 |
近世の廻船とその航路(W)
これまで3回に亘ってご案内した廻船の航路以外に、日本海北部の奥羽地方などの幕府直轄領の城米や幕藩領主の蔵米を、津軽海峡から太平洋を経由して、東廻りに江戸まで輸送する航路が拓かれていました。これは慶長・元和期(17世紀初頭)に仙台藩、また、津軽藩が寛永2年(1625)、更に明暦元年(1655)に秋田藩がそれぞれ蔵米輸送のため東廻り廻船を江戸に差し向けました。しかし、この航路は房総沖などの荒波による海難事故が多発したため、常陸の那珂湊までを海路とし、後は川舟に積み替えました。このため多大の労力や日 ...続きを見る |
2005/06/13 07:34 |
近世の廻船とその航路(T)
近世初期から中期にかけて、主に日本海海域北部において活躍した廻船に、既に簡単にご紹介した北国船(ほっこくぶね)や羽賀瀬船(はがせぶね)がありました。これらは当時、日本海海運の主役を演じた廻船であったことは間違いないようですが、両者共に現存している関係資料が少なく、詳細についての実態が良く分かっていません。 ...続きを見る |
2005/06/04 10:02 |
「山田早苗コレクション」(日本商船行動記録)
兵庫県芦屋市在住の広島大学名誉教授(歯学博士・歯科医師)の山田早苗氏が、長年に亘って趣味として収集された膨大な船舶関連資料を、2004年10月に当海事博物館にご寄贈いただきました。これは「山田早苗コレクション」と名付けられていますが、第2次世界大戦前・戦中の日本商船約4600隻に関する、詳細な[日本商船行動記録]と102隻の1/600船舶精密模型などから構成された資料です。更にこれは「戦前・戦中の日本商船に係る情報で、山田早苗コレクションに無ければ、世界中何処にも存在しない」と言われるほどの大 ...続きを見る |
2005/06/02 19:43 |
和船(北前船を中心に)の船型
先にご紹介しましたように、北前船や菱垣廻船あるいは樽廻船の一般的、かつ、代表的船型は「弁才船」です。しかし、和船の船型はこの弁才船のみでなく、就中、いわゆる北前船より前の船型として北国(ほっこく)船や羽賀瀬(はがせ)船などが航行していました。これらは近世初期に日本海沿岸北部に就航(主に越前・越後)したローカル船です。 ...続きを見る |
2005/05/06 20:22 |
神戸海洋博物館
今回は当海事博物館に関する記述は小休止し、2005年4月21日にリニューアル・オープンした、「神戸海洋博物館」についてご紹介したいと存じます。私ことhokuraは、同博物館が開館(昭和62年)後間なしの、十数年以前にここを見学したことがありますが、この度久し振りに再訪問しました。当時の記憶は少々薄れているのですが、展示室レイアウトや展示内容がかなり変更されたように感じました。展示室は1、2階に別れ、夫々のテーマは 1階展示室: 「現代から未来の神戸港」 2階展示室: 「歴史から見た神 ...続きを見る |
2005/04/24 19:42 |
船絵馬
往昔、われわれの祖先は、馬を神の乗物と考え、生きた馬を神社に献上しました。しかし、生馬を供する事が出来ない人々は、代わりに適当な木板に馬の絵を描いて、後には神社だけでなく、寺院にもそれを奉納するようになりました。 近世には社寺に絵馬堂が設けられるようになり、絵馬の他に一般書画や詩歌なども奉納の対象になりました。更に例えば、京都清水寺に末吉船(朱印船)図の大絵馬が、江戸時代初期の寛永9年(1632年)に奉納されています。 以上のように、社寺に奉納される絵馬に、馬以外の絵も描かれるようになった ...続きを見る |
2005/04/15 20:19 |
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