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悲運の戦時日本商船(20)
当シリーズの前回(19)に引続き、レイテ特攻輸送作戦(多号作戦)をご案内します。
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2008/08/20 07:22 |
悲運の戦時日本商船(19)
当シリーズの前回(18)でご案内した「春風」船団が、マニラを出航したのは昭和19年(1944)10月20日23:40であったが、米軍は同日の10:00、レイテ島北部のタクロバン及びドラッグの2箇所に、前々日からの猛烈な空爆と艦砲射撃の後に1個師団が上陸しました。当時レイテ島の防衛に当たっていた日本軍は第16師団(垣)でしたが、米軍はその後の短期間に陸続として4個師団が上陸、わが方は垣兵団のみという5対1の兵力差となり、日本軍は圧倒的に不利な状況に追いやられました。ここに至り、早急なるレイテ増援...
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2008/08/08 07:30 |
悲運の戦時日本商船(18)
昭和19年(1944)以降、緊急化した南方石油の日本本土輸送に当たり、タンカーを急造して急ピッチでそれに対応したが、これまで当シリーズでご案内したように、輸送中におけるタンカーの損害も次第に増加、遺憾ながら本土への輸送量は減少の一途を辿りました。石油輸送に携わったタンカー船団はシンガポールを発し、通常、大陸沿岸迂回ルートによる輸送途次、多くはインドシナ半島東岸海域で米軍航空機と潜水艦とにより、昼間は空爆、夜間は雷撃を受けて、数多の船団が全滅あるいはそれに近い大損害を蒙ったことは、既に見てきたと...
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2008/07/27 08:10 |
悲運の戦時日本商船(17)
太平洋戦争中(昭和16年<1941>12月8日〜同20年<1945>8月15日)、南方から日本へ導入した天然資源は多種多様に亘ったが、就中、石油と共に重要資源として輸送されたものに鉄鉱石がありました。元々日本国内には鉄資源が乏しく、太平洋戦争以前から外国産の鉄鉱石(例えば中国・鞍山)を輸入して製鉄を行っていました。
ところで、昭和14年(1939)、日本が中国・海南島に進出するに及んで、同島西部に良質、かつ、豊富な鉄鉱石を発見したため、軍は早速これを同島の三亜(あるいは楡林)から輸送船で北...
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2008/07/16 07:25 |
悲運の戦時日本商船(16)
昭和19年(1944)11月は日米間のフィリピン・レイテ島攻防戦をはじめ、日本軍のルソン島防衛戦に係る兵員と隊属物資の強行輸送作戦、あるいはフィリピン全域や台湾方面をも含めて、米機動部隊艦載機の相次ぐ来襲などが重なる由々しき時期で、これまで当シリーズで見てきたように、フィリピン近海や航路上で撃沈された日本艦船が激増し、日本軍は次第に窮地に立たされつつありました。
このような戦況下にあって、先に当シリーズ(15)で述べた「ヒ81」船団に続いて、この船団を追うように昭和19年11月15日に門司...
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2008/07/05 08:31 |
海事博物館「企画展」案内
平成20年度(2008)「海と船の企画展」(日本財団助成事業)が、日本国内の博物館など海事関連35団体において、本年度中に各地で順次開催されます。
当海事博物館においてもこの事業の一環として、以下のテーマと要領で企画展を開催しますのでご案内いたします。
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2008/06/26 20:37 |
悲運の戦時日本商船(15)
当シリーズの前回(14)でご案内した「ヒ71」船団は、船団構成及び護衛戦隊共に申し分ない陣容と思われていたにも拘らず、予想を上回る被害を受け、残念ながら期待に応えられませんでした。しかしながら、その後アメリカ軍はフィリピン・レイテ島に昭和19年(1944)10月20日に反攻上陸、フィリピン戦線の彼我の攻防戦は激化の一途を辿り、正に風雲急を告げる状況下にありました。その最中に企図された今回ご紹介する「ヒ81」船団は、「ヒ71」船団と同様にフィリピン防衛軍の増派、南方石油の積取りをそれぞれの目的と...
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2008/06/23 07:30 |
悲運の戦時日本商船(14)
昭和19年(1944)8月10日05:00、「ヒ71」と称する船団が、伊万里湾(佐賀県北部)を発して馬公(台湾膨湖諸島)に向かいました。当船団はフィリピン防衛軍の増強を図る第26師団(泉兵団)や航空関係要員などの精鋭部隊が乗船する輸送船団とシンガポール方面へ石油積取りに赴くタンカー船団の計20隻で編成され、船速は15ノット以上の高速船を揃えた重要船団でした。船団の護衛に当たったのは、空母・大鷹(旗艦、日本郵船:春日丸改造、17380排水トン)、駆逐艦・藤波、夕凪、海防艦・平戸、倉橋、御蔵、昭南...
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2008/06/12 07:30 |
悲運の戦時日本商船(13)
今回ご案内するのは、昭和19年(1944)9月6日にシンガポールを発して門司へ向かう「ヒ72」船団(6隻)と、9月10日にマニラを出航した門司向けの「マモ03」船団(3隻)についてです。マニラからの船団は護衛艦が無かったため、「ヒ72」船団と西沙諸島東方海上300キロメートル付近で、9月11日午前中に合流し、9隻の合同船団となって高雄(台湾)を経由して門司へ行く予定でした。
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2008/06/01 09:16 |
悲運の戦時日本商船(12)
前回の当シリーズ(11)でご案内した「モタ30」船団が門司を出航する約2週間前、昭和19年(1944)12月19日夕刻に、「モタ38」と称する船団が門司を出帆しました。当船団は次のような陸軍特殊船3隻と貨物船及びタンカー各1隻の計5隻で編成され、特殊輸送船と貨物船はフィリピン・ルソン島守備隊の増派、タンカーはシンガポールから日本本土向けの石油輸送がそれぞれに課せられた任務でした。以下ではこの「モタ38」船団とその復航となった「マタ40」船団についてご案内します。
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2008/05/21 07:33 |
悲運の戦時日本商船(11)
昭和20年(1945)1月1日、門司(六連島泊地)を出航した1船団がありました。この船団は「モタ30」船団と呼ばれ、以下で述べる貨客船1隻を含む6隻の貨物船と3隻のタンカーで編成され、それぞれ高雄(台湾)を経由して貨物船はマニラへのルソン島防衛軍の増派、タンカーはシンガポールへ向かい南方石油の日本本土への輸送を企図したものでした。
しかしながら、昭和19年(1944)10月以降、沖縄、台湾を含めた東シナ海方面は米機動部隊艦載機や中国沿岸航空基地から飛来する米爆撃機の制圧下に置かれ、12月下...
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2008/05/11 09:09 |
海事博物館の公開所蔵資料(続)
前回に続いて、当博物館所蔵のユニークな公開資料をご案内します。
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2008/05/01 20:28 |
悲運の戦時日本商船(10)
今回は当シリーズ(3)〜(8)で述べた、[南号作戦]発令直前に不運にも全滅した「ヒ86」と呼ばれた船団についてご案内します。当船団は後述するタンカーと貨物船計10隻から編成され、昭和20年(1945)1月初旬にサイゴン港とその外港のサンジャク港に南方からの資源を満載して停泊中でした。
船団の護衛に当たったのは、昭和19年(1944)11月19日に発足し、船団護衛専門に初めて編成された第101戦隊でした。旗艦は練習巡洋艦・香椎でその他に海防艦・鵜来、大東、対馬、第23号、第27号及び第51号...
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2008/04/22 19:34 |
悲運の戦時日本商船(9)
先に当シリーズ(3)〜(8)でご案内したように、南方石油の特攻輸送を企図した「南号作戦」は、昭和20年(1945)3月29日「ヒ88J」船団の全滅によって終焉しました。
一方、この時期は日本本土の主要都市が連日、米爆撃機B−29による猛爆に曝され、かつ、関門海峡を始めとする主要港湾岸に同機が機雷多数を投下、船舶の航行封鎖作戦が執拗に繰返されていました。これにより商船は諸港内に釘付けにされ、必要物資の輸送に支障を来たしていたが、無理を承知で出港すれば忽ち触雷沈没、さりとて止まればB−29の標...
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2008/04/11 07:33 |
悲運の戦時日本商船(8)
今回ご案内するのは「南号作戦」に携わり、「ヒ88J」と称された最後の船団です。しかしながら、途中まで同行した貨物船以外の本土向けタンカーは、雄図むなしく全て撃沈されて消滅し、本特攻作戦は終焉を迎えました。
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2008/03/30 09:28 |
悲運の戦時日本商船(7)
昭和20年(1945)1月20日に発動された、南方石油特攻輸送に係る「南号作戦」は、これまで当シリーズでご案内してきたように、2月末までに本土へ帰着したタンカーは幾隻もなく、惨憺たる結果を齎し正に無謀で実りなき特攻作戦だったと言わざるを得ません。しかしながら、益々枯渇する一方の本土に於ける石油事情を考慮して、僥倖と奇跡を神頼みとし同年3月にシンガポールを発したが、敢え無く全滅した船団についてご紹介する事としました。
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2008/03/22 09:04 |
悲運の戦時日本商船(6)
前回の当シリーズ(5)に引続き、南方石油の特攻輸送に携わり、幸いにも2隻のタンカーが日本本土へ帰着した「ヒ96」船団、一方、遺憾ながら敢えなく全滅した悲劇の「ヒ98」船団の夫々について大要をご紹介します。
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2008/03/16 08:58 |
悲運の戦時日本商船(5)
昭和20年(1945)1月下旬、フィリピン・ルソン島の制圧にほぼ成功したアメリカ軍は、それまで以上にインドシナ半島沿岸や台湾あるいは沖縄方面にも連日激しい空爆を繰返していたが、このような状況下にあった同年2月中旬、[南号作戦]に基づいてシンガポールを出航した「ヒ90」と「ヒ92」船団について、以下でご案内します。これらによる特攻船の内、ヒ90、ヒ92船団中のそれぞれ1隻が、敵の海・空からの執拗な攻撃をかわしながら、幸運にも日本内地への油送に成功しました。
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2008/03/07 07:35 |
悲運の戦時日本商船(4)
先に当シリーズ(3)でご案内した[せりあ丸]は、南方石油輸送に係る「南号作戦」の第1船として、幸運にも特攻輸送に成功しました。これを第1陣として引続き計10回の南号作戦が強行実施されたが、以後これらのうちの若干例をご紹介します。今回はフィリピンや台湾方面における戦況が日本にとって益々悪化の一途を辿る中で、せりあ丸に引続き特攻任務に携わったが遺憾ながら全滅した「ヒ88B」及び「ヒ88D」船団について、その大要を述べる事としました。
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2008/02/25 07:34 |
悲運の戦時日本商船(3)
昭和19年(1944)10月20日、米軍は大挙してフィリピン・レイテ島に上陸、爾来、日米が激突したレイテ沖海戦(捷一号作戦)等においても、彼我の攻防戦はアメリカ軍の圧倒的勝利に終わり、12月中旬には同島に展開中の日本部隊は壊滅的状態に陥り、レイテ島における日本軍の組織的な戦闘はほぼ終息していました。次いで昭和20年(1945)1月9日に米陸軍の大部隊が米海軍機動部隊の援護の下で、ルソン島西部に位置するリンガエン湾から、フィリピン中枢部の同島に上陸を開始しました。更に1月12日の早朝、ハルゼー大...
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2008/02/14 07:55 |
悲運の戦時日本商船(2)
太平洋戦争が勃発して2年10ヶ月余が経過した昭和19年(1944)10月17日以降、フィリピン・レイテ島への米軍反攻作戦が開始され、米海軍機動部隊は太平洋西部海域に常時、正規航空母艦15〜17隻、護衛航空母艦18〜20隻、また多数の戦艦や巡洋艦などの戦闘艦艇を配備して、フィリピン全域はもとより台湾海峡やルソン海峡あるいは南シナ海方面までも攻撃範囲として猛威を振るい、10月20日レイテ島に米軍部隊を上陸(約10万)させ、圧倒的多数の兵力と武器弾薬による攻撃により、日本側防衛軍は島内各地で撃破され...
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2008/02/02 08:18 |
悲運の戦時日本商船(1)
先に当ブログの[こちら]で、太平洋戦争中(昭和16年<1941>12月8日〜昭和20年<1945>8月15日)に撃沈された、大阪商船と三井船舶所属の商船についてご案内しました。今回から若干の他社船に係る戦時遭難事例を適宜ご紹介する所存で、先ずは続報の第1回として太平洋戦争終盤期に戦没した、あまり知られていないと考えられる悲劇の小型油槽船(タンカー)団を取上げてみる事にしました。
日本が太平洋戦争の開戦に踏み切った一大要因は、ジャワ、スマトラあるいはボルネオなどの東南アジア方面に埋蔵される石...
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2008/01/23 20:50 |
新綿番船と新酒番船
大坂と蝦夷地(北海道)間を瀬戸内、日本海沿岸を経由して交易に携わった北前船(北前型弁才船)に対し、主として大坂〜江戸間に於ける商品流通に大いに寄与した上方系弁才船として、「菱垣廻船」と「樽廻船」とが在りました。菱垣廻船が最初に登場したのは江戸幕藩体制確立後の元和5年(1619)で、泉州堺の商人が紀州冨田浦より250石積廻船を借り受け、大坂より木綿・油・酒・酢・醤油などの日常商品を積込んで江戸へ廻送したのが、菱垣廻船の始まりとされています。
その後、大坂が発展して行くにつれて、堺の廻船問屋は...
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2008/01/12 07:41 |
弁才船の帆走性能
日本沿岸用の帆船として重用された弁才船(北前船、菱垣廻船・樽廻船)は、江戸海運を担って商品流通に普く寄与しました。これは弁才船が弱い風でも充分な帆走性能を発揮し、操帆が簡単で舵効きがよく、内航船の宿命である頻繁な港湾への出入港が容易、かつ、荷役のやり易さなどの特長を有していたからだと考えられます。
弁才船の長所の一つである操帆が容易である点は、1枚の横帆という操作の簡単な帆装に帰する処が大で、これは逆風に向かってジグザグに航走する「間切り走り」、すなわち逆風帆走に当たっての性能が優れていた...
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2007/12/31 08:32 |
北前船の由来
当海事博物館には和船、特に「北前船」の模型が多数展示公開されていますが、北前型弁才船が登場した時期は江戸時代中期以降とされており、主として大坂〜蝦夷地(北海道)間を、瀬戸内から日本海沿岸にかけての海域で活躍し、海運による商品流通に大いに寄与しました。
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2007/12/19 07:32 |
海事博物館の年末・年始案内
年末及び年始における、当館ボランティア・スタッフの対応は次の通りですので、ご案内致します。
◎ ボランティアが館内案内等に係る一般業務を行わない期間:
平成19年12月22日(土)〜平成20年1月15日(火)
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2007/12/07 07:39 |
「高田屋嘉兵衛と北前船」講演会を終えて
先に当ブログの[こちら]で、市民セミナー「高田屋嘉兵衛と北前船」の開催についてご案内しましたが、平成19年11月23日(金・祝)に神戸市民を中心に、芦屋、西宮、明石あるいは大阪などから71名の受講者を迎えて、盛況の下に講演会を終えることが出来ました。
講演内容は「近世の航海に使用された航路図」で始まり、昼食及び休憩を挟んで、「高田屋嘉兵衛と北前船」に引継がれ、最後に「北前船の歴史と船体構造」で締め括られました。
また、休憩時間中に当海事博物館の見学が行われ、一部の当館ボランティア・スタ...
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2007/11/29 20:03 |
海事博物館の公開所蔵資料
当館の所蔵品は広く海事一般に係る参考資料で、大小約20隻の主として北前船(弁才船)の模型、それらいわゆる和船の艤装品の実物、船大工の板図、道具類、また、船頭が使用した船内属具や航路図など、広範多岐に亘る蒐集品で構成されています、更にその他海事関連資料として価値ある「山田早苗コレクション」、「仲島忠次郎コレクション」の一部が公開展示されています。
山田コレクション、仲島コレクション及び航路図については、当ブログで先に述べたので、今回はその他の収蔵資料の若干についてご案内します。
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2007/11/14 07:26 |
和船(弁才船)の航路図
海に囲まれた日本では、古くから中国大陸や朝鮮半島などの諸外国と人的及び物的交流、また、国内輸送に当たり、海路が広く利用されてきました。一般にこれら海路の航海に用いられたのが航路図、海図などと呼ばれた図で、安全航海のために作られてきました。
わが国では、近世初頭にいわゆる南蛮船が渡来していた頃、当時東南アジアを訪れていたスペイン人やポルトガル人などから、羅針盤を用いたヨーロッパ式航海用のポルトラーノ型海図(13世紀頃、地中海の航海者たちによって作られた)が齎されました。しかし、当時の日本人は...
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2007/11/03 09:01 |
講演会:高田屋嘉兵衛と北前船
今回は当海事博物館が主催する講演会(市民セミナー)についてご案内します。テーマは「高田屋嘉兵衛と北前船の航海」で、以下の要領で開催されます。
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2007/10/17 20:26 |