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help リーダーに追加 RSS 悲運の戦時日本商船(26)

<<   作成日時 : 2008/11/01 07:26   >>

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 これまで見て来たように、輸送船による日本本土よりパラオ経由、ニューギニア方面への兵員及び隊属物資などの補給作戦は、次第に戦況が悪化する中で懸命に続行されていました。しかしながら、ニューギニア北部に点在する、ウエワク、アイタベあるいはホーランジアなどの日本軍拠点は、ニューギニア東部の連合軍航空基地や機動部隊空母から発進する航空機の度重なる攻撃を受け、昭和19年(1944)1月〜2月頃にはそれらの日本軍基地は、益々苦境に立たされつつありました。
 このような状況下で決死の輸送に携わった、以下の作戦末期の船団2例をとり挙げてその概要をご案内し、ニューギニア輸送作戦に係る投稿の最終回と致します。

第20次ウエワク輸送:
吉備丸(日之出汽船)
 昭和16年(1941)に建造された貨物船(1C型戦時標準船)で、その要目は長さ94m、幅14m、主機2段減速蒸気タービン1600馬力、最高速力13.4ノット、総トン数2759トン(画像は同型船)
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第3大源丸(北州汽船→名村汽船)
 1908年(明治41)に英国で建造された貨物船・Geogia、大正15年(1926)に北州汽船が輸入して八州丸と改名、その後昭和4年(1929)に名村汽船の所有となり第3大源丸と再改名したもので、その要目は長さ(垂線長)122m、幅16m、主機3連成レシプロ機関2600馬力、最高速力12.5ノット、総トン数5255トン
大永丸(酒井商店→栗林商船)
 大正15年(1926)に建造された貨物船(在来型)で、株式会社:酒井商店の所有を経て、昭和11年(1936)に栗林商船が購入したもので、その要目は長さ(垂線長)99m、幅14m、主機3連成レシプロ機関2000馬力、最高速力13.8ノット、総トン数3221トン
成田丸(内外汽船→山下汽船)
 昭和17年(1942)に建造された貨物船(在来型)、昭和18年(1943)の船社合併後、山下汽船に移籍したもので、その要目は長さ(垂線長)83m、幅12m、主機3連成レシプロ機関1806馬力、最高速力14.8ノット、総トン数1915トン

 これら4隻は昭和19年(1944)2月23日、駆潜艇3隻の護衛でパラオを発し、ウエワク・ホーランジア方面へ向かいました。船団の積荷は航空機用ガソリン(ドラム缶入り)、弾薬や糧秣などを満載、また、第3大源丸には船舶工兵隊員と補充要員の歩兵2個中隊将兵合計1126名が乗船し、各船には兵員及び物資揚陸用の大発(大型上陸用舟艇)がそれぞれ7〜8隻積載されていました。
 23日のパラオを出航直後に米狼群潜水艦に捕捉され、船団各船の無線室では敵潜水艦の間で交信される無線連絡情報を傍受していました。しかし、その後の25日までの2日間、昼間はパラオ島水上機基地から飛来する友軍機によって、船団上空の哨戒が行われ、また、夜間は各護衛艇と各輸送船の厳重な見張りの中で、取敢えず無事航海を続行しました。
 しかしながら、船団がニューギニア北岸サルミの北方100キロメートル(南緯01−51、東経139−00付近)に達した2月26日18:30頃、「第3大源丸」の船橋見張員が本船の左舷前方から接近する2本の雷跡を発見報告、直ちに船長は「取舵一杯」を指令して、1本目の魚雷は辛くも船首ギリギリで回避したが、2本目の魚雷はかわしきれず、船尾第3番艙に命中爆発、激しい浸水のため総員退船命令が発せられたが、このとき船齢35年の本船は、1分後に船体が二つに切断されて沈没、乗組員18名、船砲隊5名及び歩兵66連隊員554名が戦死しました。
 幸い撃沈されたのは第3大源丸1隻に止まり、残り3隻の輸送船は2月28日ウエワク海岸沖合いに到着、無事に軍需物資の揚陸に成功し、更に3月1日にはホーランジアへも回航して奇跡的に全量の軍需品揚陸を行い、3月2日にホーランジアを出航してパラオへの帰途に就きました。

第3大源丸以外の輸送船その後の動向について
吉備丸」:昭和19年3月29日14:45、パタ07船団で駆逐艦・若竹の護衛の下、パラオを発して高雄向け退避航行中、3月30日米機動部隊艦載機の空爆を受けて沈没、乗組員5名戦死
成田丸」:昭和19年4月12日、ニューギニア・ホーランジア沖(南緯02−30、東経140−30付近)にて空爆により沈没、乗組員32名戦死
大永丸」:以下の第21次ウエワク輸送に参加

第21次ウエワク輸送:
八雲丸(大阪商船)
 大正8年(1919)に建造された貨物船(在来型)で、その要目は長さ(垂線長)93m、幅13m、主機3連成レシプロ機関1906馬力、最高速力12.0ノット、総トン数3200トン
 本船については[こちら]も参照下さい
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大永丸(酒井商店→栗林商船)
 上記の第20次ウエワク輸送に従事
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 昭和19年(1944)3月12日、以上2隻が駆潜艇4隻の護衛で、パラオを発してウエワク、ホーランジア方面へ向かいました。両船の積荷は第20次ウエワク輸送時と同様の軍需物資を満載していたが、船団は奇跡的にパラオ出港後に一度も敵潜水艦に攻撃されず、3月16日16:00、この任務の第1目的地ホーランジアに到着、米航空機の空爆を受けることなく、無事に目標量の軍需品の揚陸に成功しました。次いで、翌17日の14:00にホーランジア発、最終目的地のウエワクへ向かい、18日11:00頃にウエワク海岸着、直ちに物資の揚陸作業を開始しました。しかしながら、作業終了の近い22:00頃、敵駆逐艦の1隊がウエワク沖に現れ、船団に攻撃を仕掛けてきたため、やむなく両船の船長は揚陸作業を中止、ウエワク沖合いに在るムシュ島の島陰に待避しました。その後両船は翌19日04:00、避泊地から脱出してパラオへ向かったが、同日の09:00頃に米B−25爆撃機などが船団上空に飛来して爆撃を始めました。護衛の駆潜艇及び輸送船の船砲隊が非力な火器で懸命に応戦したが、米機の超低空からの攻撃で八雲丸及び大永丸に無数の爆弾が命中、「八雲丸」は19日11:00頃、ウエワク北方100キロメートル(南緯02−40、東経143−30付近)において沈没、乗組員60名、船砲隊48名及び便乗者6名が戦死、また、「大永丸」は19日15:30頃、アイタベ東方37キロメートル付近で沈没、乗組員38名、船砲隊50名が戦死しました。
 ところで、この第21次ウエワク輸送作戦が、ニューギニア北岸方面への最終補給となり、昭和19年4月22日には米陸軍部隊がアイタベ及びホーランジアに上陸、更に6月にはニューギニア西部地域も米軍の勢力圏となり、日本軍のニューギニア戦線はほぼ終焉を迎えました。北岸のウエワクなど若干の地域には米軍が上陸しなかったものの、以後のそれらへの補給は完全に絶たれ、敗戦の日まで数多の日本軍部隊は飢餓と苦難の中に取り残されました。

(注) 昭和19年(1944)3月30日から31日に亘り、米機動部隊艦載機によるパラオ大空襲が行われて同島は完全に無力化され、同時にニューギニア方面への補給ルートを失い、日本の防衛圏は次第に崩壊の一途を辿るに至りました。

海事博物館行事案内:当館において、[こちら]の要領で「市民セミナー」を開催中

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